ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

恵まれて

2012-05-28 00:13:47 | エッセイ

 休日、ゆっくり寝て、最近は、夜、酒を飲むこともないので、割合早く目覚めるが、寝床で本を読む。しばらく読んで、また眠くなれば、本を閉じて、一寝する。それから、お昼ころに起き出して、トーストを焼いて、食べる。週日には、トーストと温めた牛乳のみだが、休日には、バター、ジャムを塗り、チーズをあわせたりする。食後に、コーヒーをドリップして飲む。そして歯を磨いてから、用事がなければ、また寝床に戻って本を読み、眠くなれば、また一寝。
 本を読んで、眠くなれば寝る。この至福。
 コーヒーを、豆で買っておいて、電動ミルで挽き、ペーパードリップで入れる。このコーヒーが美味い。豆はこの店のと、一か所に決め込んでいるわけではない。最近は、東京中央線武蔵境のコーヒーローストという自家焙煎の店が気に入っているし、地元気仙沼なら、アンカーコーヒー。都会ならどこにでもある大手のコーヒー店や、時にはスーパーで安く売っているものを買うこともある。
 もちろん、店により、種類により、味は違う。特に美味いものはある。
 しかし、押しなべて、私が自宅のこの台所で淹れるコーヒーは、美味い。どんな豆を使っても、美味い。下手な喫茶店や、普通のレストランの食後のコーヒーよりは、全く美味い。
 考えてみれば、ペーパードリップでコーヒーを淹れ始めてから、40年、とまではいかないが、35年ほどにはなる。仕事の日は別、休日、週に1~2回は淹れ続けている。ひとつの熟練はある、と言って間違いではない。
 さて、今日は、午後から外出の用事があった。タンスから紺の厚手のコットンのパンツを出して履く。ジーンズではない。形はジーンズで紺だが、インディゴではなくデニムではない。シャツは、シンプルなストライプ。私が20歳のころの50台の男性は、こんな格好はしていなかった。
 着替えて居間兼台所に戻ると、息子が、椎名林檎の東京事変のDVDをかけている。椎名林檎は素晴らしい。音楽も、舞台のビジュアルも、彼女の容姿も素晴らしい。しばらく見とれてしまう。ぼくが十代や二十代の頃、ロックミュージックに触れて思い描いていた理想の世界が、椎名林檎によって実現されてしまっている。椎名林檎は、ロック世代のわれらの未来に思い描いていた理想の実現だ。
 私は、20歳のころに、思い描いていたさまざまな理想をすでに手に入れてしまったのではないか?
 もちろん、住まいは、車の上がらない、徒歩でしか上がれない坂の上の、粗末な木造平屋のしもたやで、(もちろんうだつなどない)しがない地方公務員だ。
 しかし、休日に本は読めるし、コーヒーは美味い。下手な文章を書いて人目に晒すこともできる。これ以上、何を望むべくもない。これで、私は、充分満足しているのではないか?
 仕事は、息子が、まだ大学生なので、数年は、辞めるわけにはいかないが、まあ、あと数年と先は読める。(などとは言いながら、与えられた職場で、やってきた仕事に、実は、そんなに不平不満はない。というよりも、それなりに面白く、やるべきことはやってきた、と言えるはずだ。)
 そうだ、これ以上、何を望むべくもない。妻は美しい。
 もはやいつ死んでも構わない。いつ死んでも同じことだ。これ以上の目覚ましい達成など、期待してもしょうがない。いや、世間的に目覚ましい達成があるかもしれない。もし、あったとしても、それはこの美味しいコーヒーの味以上のものではない。こんなところで、満足していい。
 人間の一生というものは、こんなものだったのだろう。生きる意味はあるのだろうか?生まれた意味はあったのだろうか?これから生き続ける意味はあるのだろうか?

 (子育てを終えて退職した後、いささかものを書くこと、歌をうたうこと、芝居に関わること、これらのところで何ごとかをなし続けることが叶うならば、それはそれで、満ち足りた生活となるのだろう。それ以上は、何も望むことはない。)

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