ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

白鳥省吾研究会会報第15号を読んでの随想

2014-02-24 11:08:09 | エッセイ

 2月23日の日曜日、第15回白鳥省吾賞(宮城県栗原市主催)の表彰式が行われ、会場の栗原市築館、栗原文化会館に行ってきた。

 一般(高校生以上)の部、最優秀賞は、横浜市の草野理恵子さんの「澄んだ瞳」であるが、優秀賞には、群馬県前橋市の中村花木さん「春太郎」と、私の「船」が選ばれた。

 詩の賞は、2012年の宮城県芸術協会の文芸賞が初めてで、このときも「半分はもとのまま」という津波のあとのことを書いた詩だったが、今回も、同様。第18共徳丸のことを書いたもの。霧笛27号に載せた「置く」という詩もやはり共徳丸のことだが、また、別の詩。(27号の表紙には、常山俊明のまさしくその共徳丸のスケッチを使わせてもらった。)

 詩誌霧笛は、震災前に第2期20号に達し、通算100号となったところだったが、震災後は、9月に至ってようやく21号を発行した。まだ原稿の書けない同人もいたが、とにもかくにも発行、内容は、ほぼ震災のこととなった。いま、29号がすり上がって届いたと、代表の西城健一さんから連絡はあったが、まだ手に入れていない。

 21号以降、霧笛に掲載した私の詩は、大半は直接に震災のこととなっている。今回の優秀賞の賞金もあるので、このあたりでいったん、震災に関係する詩をまとめてみたいとも思う。

 タイトルはたとえば「半分はもとのまま-湾Ⅲ」とか。湾というのは、最初の薄い詩集のタイトルで、2冊目は「湾Ⅱ」とした、その「湾」。気仙沼湾のことである。

 震災直前にまとめた3冊目の詩集は「寓話集」と名付けたが、ここでは、もういちど、このタイトルを使うべきかもしれない。まあ、これは、「獲らぬ狸の皮算用」というわけではないが、まだ、先の話題だ。(自分のつくるものに「獲らぬ狸」もないわけだが、詩集をまとめて行く作業には、あらかじめ予測不可能な事態も想定される。発行には至らない可能性も、確かにある。その間に、何かただならぬものが降臨してくるということもあり得るわけで、そういうことをこそむしろ期待したい。その期待を込めて、「獲らぬ狸」と言ってみる。)

 とまあ、ここまでは余談だが、会場で次第などとともに「白鳥省吾研究会会報第15号」をいただいた。

 ちなみに、余談ついでとなるが、白鳥省吾は、「しろとりせいご」と読む。しかし、私もつい「しらとり」と言ってしまう。若山牧水の有名な歌「しらとりは悲しからずや海の青空の青にも染まず漂ふ」とか、タイガーズの加橋かつみが歌った「花の首飾り」の歌詞に影響されているのかもしれない。

 白鳥は、県内ではときおり見る姓で、築館近辺に相応に分布していると思う。読み方はもちろん「しろとり」である。しかし、今回、表彰式後の懇親会のスピーチで、何人かの方が「しらとり、いや、しらとり」と言い間違えておられた。そうか、地元の方でも、言い間違う場合があるのか。これは興味深い事象である。日本語として、白鳥は「はくちょう」と音読みするのがもっともポピュラーだが、訓読みするとすれば「しらとり」のほうがポピュラーなのだということになる。白鳥を「しろとり」と読むべきかたがたの多い地域であっても「しらとり」とつい口をついて出てしまう、ということは、そういうことなのだろう。

 さて、白鳥省吾研究会は、宮城県詩人会の会員でもある佐藤吉人さんが事務局ということで、実際は代表者なのだろうが、会報の編集と発行を担われている。今回の特集は「石川啄木・宮澤賢治と白鳥省吾」とのことで、大変な労作である。内容も実に興味深い。丹念に、先行の著作を当たられている。大正、昭和、そして平成のものまで含めて。

 冒頭はこうである。

 「宮澤賢治と白鳥省吾の間にゴシップがあるという。本題に入る前にその背景を紹介しておきたい。」

 ということで、まずは石川啄木と省吾の関係を述べ、その後に、宮沢賢治とのゴシップについて筆は進む。伊東整の「若き詩人の肖像」の記述や、草野心平と省吾のやり取りなど多くの資料を引用しながら検討していく。賢治側からの見方、賢治に与することで省吾を批判しようとするものの見方、そして、省吾側からの見方、それらを読み、伝聞するものたちの見方、その辺りの錯綜。

 「事実」というものは、ひとの見方によって大きく変わるものだ。

 佐藤吉人さんは、丹念に資料をひろって、妥当な、あり得べき結論に達しているものと思う。たいへん興味深くおもしろい読み物になっているので、この会報、ご一読をお勧めしたい。

 ちなみに、念のため書いておくと「当時の詩壇の大御所たる白鳥省吾が、新鋭の宮沢賢治に会いたいと、白鳥のほうから訪問したが、賢治が会わないと肘鉄を喰らわせた」というゴシップが面白おかしく語られたが、実際のところ、そんな事実はなかっただろうというのが結論である。

 この3人の生年を並べて置くと、石川啄木は明治19年生まれ、白鳥省吾は明治23年、宮沢賢治は明治29年生まれとなる。

 

 さて、白鳥省吾が故郷を歌った短い詩がある。

 

 「生まれ故郷の栗駒山はふじのやまよりなつかしや」

 

 この会報にも引かれているが、築館の白鳥省吾記念館でも展示され、地元では、省吾の作として、代表的に使用されているようだ。

 字数を数えると「七・七・七・五」となる。短歌ではない。しかし、日本のいわゆる七・五調には乗っている。

 そうそう、これは、俚謡だ。

 気仙沼でいえば、尾形紫水。「こんな住みよい深山をすてて 清水ちょろちょろどこへ行く」。確かに「七・七・七・五」だ。

 省吾は、後に民謡の作詞もずいぶん手掛けたようで、なるほど、そういうことか。

 ふるさとを歌ううた。石川啄木であれば

 

 「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」

 

となる。

 あるいは、山ではなくて、川となるが、

 

 「やわらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」

 

 こうして見ると、啄木は、とても感情的だ。啄木の人生の労苦がありありと見える。そもそも短歌というものは感情的なものだというからではある。

 それに比べて、省吾のは、「なつかしさ」という感情にあふれてはいるが、そんなに労苦を前提としているわけではない。啄木と比較すると、ほとんど感情的ではないとすら言ってしまえる。

 個人の感情からは離れている。啄木のは、全くもって個人の感情そのものである。

 一種の校歌のようなもの。(省吾は、県内や関東も含めて校歌もたくさん書いている。)個人の感情からは離れた、地域の共通の感情のようなもの。地域一般の地域に対する意識を表現したもの。郷土愛の表現。(今になってみると、ふるさと築館の歌であることはそのとおりであるが、むしろ、栗原郡全体、つまり、現在の栗原市そのものの歌であると言える。)

 そして、この歌は、地域にとっての一般、地域にとっての共通意識ということを超えて、実は、日本全体にとっての共通意識のようなものにまで広がっている。それは、もちろん、「富士山」を引き合いに出しているからであることは言うまでもない。

 日本のどこに生まれた人が読んでも、そうか、地元の人にとって栗駒山は富士山よりも素晴らしい山なのかということが、一読すぐに分かる、ということになる。日本で二番目の高さの、南アルプスの北岳などと言っても、富士山ほどには知られていない。宮城県では蔵王のほうが有名かもしれないが、県南の蔵王より近くの栗駒のほうが懐かしいと言ってもあたり前だということにしかならない。

 逆に、県南の白石市(ちなみに、これも、しらいしでなくて、しろいし)あたりのひとが

 

 「生まれ故郷の蔵王の山はふじのやまよりなつかしや」

 

と言えば、これもあてはまってしまう。

 気仙沼であれば、「安波(あんば)の山」と置き換えればいい。

 つまり、白鳥省吾は、日本の普遍に届いた詩人である、ということになる。築館の町を出て、早稲田に学び、日本の詩壇の中心人物となった彼は、日本の文化の普遍に届いた人物である。

 ということで、今日も、特段の本論がないまま余談のみで終わる随想を書いてしまった。

 実は、今回、その名を冠した賞をいただきながら、ほとんど、白鳥省吾の詩は読んだことがない、というたいへん迂闊な事態となっている。申し訳ないことではある。

 築館町(昭和61年発行で合併前である。)時代に編纂された「白鳥省吾の詩とその生涯」という堅牢な本も頂戴したところで、これから読んでみたいところであるが、そこから何か書くということは、今後の課題ということにさせていただきたい。(などと言いながら、別に誰からも求められているわけではない。詩人とは自ら課題を背負うものの謂いである、なんてね。)

 省吾と賢治のゴシップの詳細については、ぜひ、「白鳥省吾研究会報」をお読みいただきたい。お勧めである。お問い合わせは、事務局の佐藤吉人さん(〒989-5371栗原市栗駒沼倉林8 電話0228-45-4794 メール y-sato@mx5.et.tiki.ne.jp)まで。

 ところで、いま、研究会のHPをみたら、白鳥省吾の読み方として、本名は(しろとりせいご)と書きつつ、ペンネームは、本名の読み方の他に(しらとりしょうご)とも記載している。どちらも使ったということだろうか?

 たしかに、私自身、以前は「しらとりしょうご」と思い込んでいた。一般には、そう読みたくなる。恐らく本人、最初は訂正したりしていたが、そのうち面倒になって流通させたという筋道かもしれない。

 気仙沼に多い熊谷(くまがい)の名字も、東京では、まず、「くまがや」と呼ばれる。本家本元である埼玉県の熊谷市も、本来は「くまがいし」なのだが、JRの駅名に引きづられることもあって一般には「くまがや」と呼ばれている。余談に次ぐ余談であった。


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