秋さんの第3詩集、ということになるようだ。
16編の詩が掲載されている。うち2編は散文詩。あとがきを見ると、この2編は、当初エッセイとして発表したものとのこと。
この2編だけは、他の行分け詩と色合いが違う。形態が違う、と言うだけではない。書いている内容が、全く違う。
これらには、ほんとうのことが書かれている。秋さんが、実際に生きてきた経験が書かれている。
「かわいいものほど、おいしいぞ」は、祖父。
「秋葉和夫校長の漂流教室」は父のこと。
いや、ひょっとすると、これもまた、フィクション、ではあるのかもしれない。
「秋葉和夫校長の漂流教室」の冒頭は、下記のとおり。
1971年、わたしが最初の詩集を出したのは、二〇歳のときだった。「おやじの胃癌を飼育していた。それは俺だ」というような詩がそこにあったのだけれど、とくに父は病気ではなかった。父はその詩を読んで、わたしになにか言うことはなかった。(70ページ)
リアルである。
そこに引用してある詩の一行、「おやじの胃癌を飼育していた。それは俺だ」の創りものめいた非リアルと、その前後の現実性は見事な対比ぶりである。
詩集冒頭の詩「青少年のためのだからスマホが!」の冒頭は
三行進んで一回休む
罰ゲームで「永遠プレッシャー」を歌う
振り出しに戻る「UZA」を踊る
罰ゲームうれしい(8ページ)
創りものである。非リアルである。
「永遠プレッシャー」、「UZA」、なにか最近のアイドルの楽曲だろうが、少なくとも、秋さんにとってリアルな曲名ではない(だろうと思う)。
「秋葉和夫校長の…」の第二段落は、以下のとおりである。
父は小学校の教師だった。まもなく父が校長になったとき、「秋葉和夫校長の漂流教室」というタイトルの詩を、わたしは書いた。楳図かずおの漫画「漂流教室」をもじったわけだ。「秋葉和夫」とは父の氏名である。父はそれを読んで、わたしになにか言うことはなかった。
これは、まさしく、その通りであったのだろうと思わせる。リアルである。
同じ詩のもう少し先。
もうろうとしていて、気づくとまわりは火の海だった。アパートの部屋を火事にしてしまったのだ。わたしは警察に連れて行かれ、ひと晩を明かした。取り調べがあり、調書が取られたころ、父の顔があった。連絡を受けて仙台から飛んできたのだと思う。父の顔を見た瞬間、わたしは泣きたいのだ。と、気づいた。
(中略)
身元引受けのサインをする父の右腕が、とんでもなく震えていた。サインができず、父は右手を左手で押さえた。わたしは、涙が止まらなかった。悲しいとか、悔しいとかじゃなくて、父の顔を見たことの、うれし涙ではなかっただろうか。いや。豪傑なはずの教師が、息子の起こした事件のために、腕の震えが止まらない。その姿を見たわたしの脳が、勝手に涙を作ったのだ。(73ページ)
これは、リアル過ぎるほどリアルな告白だ。秋さんが詩をやめた理由があからさまに語られている。秋青年は、大学を中退して生まれ故郷の仙台に、父親に連れ帰られる。そして、以後断筆する。青年は、資本主義社会の真ん中で会社を興し成功させる。その後、二十年以上も経て詩の世界に戻って来る。
そして詩集を出す。
秋さんの詩の流儀からは外れてしまったようなリアルな人生の描写。これはいささかも創りものではない。
しかし、これもまた、実はフィクションであるのかもしれない。実人生をかけた壮大なフィクション。
寺山修司という演出家が手掛けたいくつかの作品のうちのひとつ、とでもいうように成り立った人生そのものであるようなフィクション。
リアルなフィクション。
実は、「秋葉和夫校長の…」の次におかれた作品、行分け詩の「残り半分のあなた」を読むと、そこには、ひとつも嘘がないことに気づく。ほんとうのこと、しか書いていない。
全文を引く。
水平線では
泳ぐものと飛ぶものが
半分ずつ溶けあっています
鏡と現実の境界にも水平線があって
ふたりのあなたが
半分ずつ溶けあっている
だから鏡を見ているあなたは
半分だけあなたなのです
残り半分のあなたはまだ鏡の中にいて
隠れたままかもしれません
帰りたくないのかもしれないね
あなたは半分だけ自分を嫌いだから(80~81ページ)
「半分だけあなた」なんて嘘じゃないか、と、いまこの文章を読んでいるあなたは言うかもしれない。しかし、これは、ほんとうのことだ。ひとつも嘘がない。
「水平線は、必ず、見る者の目の高さにある」と、この詩集のどこかに書いてあったはずなのだが、見つけることができない。これは、飛行機に乗っているとか、宇宙船に乗っているとかでなく、どんなに高い高山であろうが地上にいる限り、近似的に正しいことだ。地球の直径と比べれば、地表の山の高さの違い、まして人間ひとりの身長は充分過ぎる以上に小さい。
水平線がそういうものであれば、空と海とがちょうど人間の視界を半分づつ占めるというのは真実にほかならない。つまり、この詩は、真実をこそ書いている。嘘はひとつもない。
これは、相当に優れた詩、なのかもしれない。
すると同様に、その次に置かれた詩、タイトルチューンである「ひよこの空想力ゲーム」にも、ひとつも嘘がない、ということに気づく。
この詩は、「少女と長いキスをして、やがて舌はくちびるを割って口内をまさぐる」(82ページ)と始まり、最後はただ一語「ひろこ」という(恐らく少女のほんとうの)名前で終わる。散文詩の詩行と、行分けの詩行が、不定の間隔で交互に現われる。これは、ほんとうのことしか書いていない。ひよこと呼ばれた少女がどうなったのかは、詩を読み始めて間もなく明かされる。それは、おそらくほんとうのことだ。秋さんが生まれる前の演歌に託されて歌われる歌詞のような詩行にあからさまに書きだされる。
嘘はひとつもない。
ところで、散文詩「かわいいものほど…」の直前は、行分け詩「ひとは嘘をつけない」である。そう、そのとおり、秋さんは嘘をつけない詩人だ。などと言ってしまうと、秋さんにうまく騙されてしまった、ということになる。
最終連を読む。
ひとは嘘をつけない
だって真実なんて
辞典のなかにしかないのだから(62ページ)
嘘だよ。騙されてはいけない。真実が辞典の中にしかないなんて嘘に決まっている。真実は、秋さんのこの詩集の中にあふれている。
あ、そうそう、あとがきに、秋さんの詩を書くうえでの「ルール」が書きあげられている。これは、私もまったく同意するので書き写しておく。
直喩は使わない。暗喩になってしまっていないか注意する。美しいとかいい香りとか恐いとか、感想を書かない。心象や風景のスケッチをしない。擬音語を使わない。擬態語 を極力使わない。辞典を引いてまでして書かない。高校生がふつう使わないことばは使わない。読者は十八歳のときのわたしひとり。あるいは、十八歳のときのあなたひとり。
いや、ここまで徹底できないか…
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