七月一日付で、気仙沼自由芸術派を発行元として、新しい詩集を刊行、また、前の詩集を増刷した。
表紙と挿画は、第三詩集の『寓話集』以来引き続き、気仙沼自由芸術派の盟友・常山俊明の手になる。(もっとも常山からは、派の結成について明確な同意を得たわけではないが、拒否もされていないので、しぶしぶ了解はしていると思う。)
『迷宮』は、「寓話集Ⅱ」とし、言葉の世界、想像力の世界で自由に遊ぶ位置づけである。
第一章は「五十年」、2018年3月、震災のあとの復旧として開館なった新しい気仙沼図書館の計画に携わったものとして、図書館とはどういうものか、気仙沼図書館はどういうものであったかに思いを巡らし、書きとめたものをまとめた。第二章は「夢の話」、続けて「斜線」、「大きな無意味・小さな意味」、「普通について」、第六章は「ペテン師みたいな」、それにプロローグとエピローグをつけて、一冊とした。
前の『湾Ⅲ』は、「2011~14」と暦年を付したとおり、震災以降の気仙沼に焦点をあててまとめたものである。今回は、その時期に書いたものから、17年6月に詩誌『霧笛』に発表したものまでの中から選び取り、まとめた。常山に絵の構想を進めてもらう時間も含めてのことであるが、取り捨て、改稿に相応の時間をかけた。気仙沼という枠を超えた世界が表現できていれば、という思いはある。ただし、たとえば第1章で取り上げたのは、図書館とは言っても、なんと言っても気仙沼の図書館のことではあり、震災以降の詩として読みとってもらうべきものも多い。
『湾Ⅲ2011~14』第2刷については、「序」を掲載しておく。なお、巻末に、刊行以降、はがき、手紙、また、メール等のメッセージで感想、評価をお寄せいただいているが、まとめて付録として掲載した。有難い限りである。
「 第二刷への序
この詩集は、二〇一五年一二月二五日付で発行した。タイトルのとおり、二〇一一年の震災のあと書いた詩をまとめたものだ。
現代詩手帖二〇一三年一二月号に、秋亜騎羅さんが、その年の「展望」として、私のブログに書いた文章を取り上げられた。冒頭、同年に発行されたある詩集、震災以降の詩集のひとつを紹介し、続けて、私がその詩集を「辛辣に批評している」と。私には、その詩は、「詩を書くことによって世界を復元できるし、幼子の心を修復することもできる」と主張しているように見えた。あるいは、詩人としてひとつの解答を提示せねばならぬという思い込みによって結論を急いだということかもしれない。結果として、現実に被災地に生きている人々の思いを軽々しく扱うことになってしまったということかもしれない。気仙沼の人間にとって大切な「森は海の恋人」という言葉を揶揄するような詩句もあった。それは、確かにレトリックではある。
私は、解答は不要だと書いた。詩のレトリックも「もっと大きな謎を投げかける、不可知に開かれるというかたちでなら良いのかもしれない」と。
秋さんは、「千田さんの言うのはまったく正しいと思う。だけど、詩人はことば遊びをしているんだよ。言葉でどこまで遊べるか闘っているんだよ」と書かれた。私も、それはまったく正しい、と思う。
四年前に刊行した「湾Ⅲ2011~14」は、ひとつの回答であった。ただし、決して解答ではない。これで被災地が復興するわけでも、人々が救済されるわけでもない。しかし、いつか、永劫の先の解答がありうることを希求しつつ。
このところ、妻・真紀と二人で、この詩集から作品を朗読する試みを始めている。これから先、語り続けて行こうと思う。そのために第二刷を刷る。巻末に、刊行後の反応をまとめ付録とした。常山俊明の絵の力があってこその増刷である。」
『湾Ⅲ』第2刷の「序」は以上である。
このところ、私と妻・真紀のふたりで、詩の朗読を行っている。「湾Ⅲ」から、第18共徳丸についての詩を中心に7編ほど、10分少々の時間で。また、「迷宮」の第1章を中心に、同程度の長さで。詩行を分けて交替で、ある部分は、声を重ねて。今後とも、こういう機会は継続して行きたいと願っている。お声掛けがあれば、常山俊明の手になる「湾Ⅲ」の表紙、第18共徳丸のスケッチのパネルを手に、どこにでも飛んでいきたいと考えている。
詩集は、現在のところ、気仙沼市内では宮脇書店、古書店イーストリアス、また一色法人氏の十人十色ライフサービスに置いていただいている。遠隔の方は、イーストリアスまたは、私に直接ご連絡をいただきたい。どちらも定価1000円(税別)としている。
イーストリアス
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