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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中井久夫 いじめのある世界に生きる君たちへ 中央公論新社

2019-06-20 22:41:56 | エッセイ

 副題は、「いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉」。いわさきちひろの表紙カバーの絵と挿画がなんともやさしく美しい。

 精神科医にして評論家、筑波大学教授の齊藤環氏によれば、中井久夫は優れた精神科医である。

 

「一昨年刊行された『こころの科学 中井久夫の臨床作法』(日本評論社)を読むと中井久夫と彼のファンである精神科医たちが、いかに患者さんたちに対して人間的に配慮する治療を試みてきたかがよくわかりますし、私もそうした姿勢からすごく学ばせてもらいました。」(文藝別冊 中井久夫 精神科医のことばと作法 KAWADE夢ムック6ページ)

 

 詩人にして、詩の翻訳家、読書人、精神科医として、神戸の震災のあとの実績も高名で、優れた臨床家、実践者であるが、精神医学についての理論家としても、最重要な著述家である。

 さて、この書物は、『アリアドネからの糸』(みすず書房)所収の「いじめの政治学」をもとにした作品とのことである。

 ページを開くと、第1項目は「いじめは犯罪でないという幻想」と題される。

 

「いじめはかなりの部分は、学校の外で行われれば立派な犯罪です。では学校の中で行われればどうでしょうか?「罪に問われない、学校は法の外にある」という考え方は、多くのひとがもっているかもしれませんが、ただの錯覚です。」(8ページ)

 

 いじめは犯罪でありうるものだという明確な宣言である。この明確な言葉でもって、救われたひとは数多いはずである。

 

「ある少女が長い間わたくしのところに通っていて、一年近くになった時、いじめられていることをやっと話してくれました。

 「そうだねぇ、学校には交番もないし裁判所もないし、言っていくところがないよねぇ。それが一番つらいことだったかもねぇ」とわたくしはその時、真っ先に浮かんだことを言葉にしました。

 それはわたくし自身の経験でもありました。校庭の中には交番もなくおまわりさんもいない。先生はおられるけれど、なぜか訴え出る相手ではないという気持ちがありました。」(6ページ)

 

 先生が、訴え出るべき相手ではない、という気持ち。これは確かにそのとおりなのかもしれない。何故だろう。先生に相談して、事態が好転する場合もないことはないだろうが、役に立たない、あるいは、悪化の要因となる場合も多々あるようにも思う。一方、先生の側にとっては、相談される先ではないと宣告されることはどうなんだろうとも思う。つらいことには違いない。

 この、訴えるべき先がないという感覚、逃げ場のなさ。これは確かに私も経験した記憶がある。小学校から、中学校の初年にかけてのころだったと思う。

 その後の人生の中で、私はいじめる側の立場に立ったことはない、とは思うが、いや、多数派に与する側で、そういう側にいたこともあったかもしれない。いじめられた時の記憶、そのときの感情の記憶、それに、ひょっとするといじめる側にいたことがあったかもしれない思いともないまぜになって、この本を読み通しながら、心穏やかでばかりはいられなかった。

 第2項は「いじめかどうかの見分け方」、第3項が「権力欲」、さらに「孤立化」、「無力化」、「透明化」、「無理難題」と続き、最後第8項が「安全の確保」。

 順々に読み進めて、どれもがそのとおりに違いないと納得できる内容であり、言葉として難しいことはひとつも書いていない。読みやすく、美しい絵本のように、お気に入りの詩集のように、繰り返し読みたくなる装丁でもある。現にいじめを受けている子どもたち(いや、それだけでなく、大人にも)に直接届くことを願って編まれた本である。

 編者は、ふじもりたけしという教育学の専門家らしい。

 ところで、この本は、「いじめられっ子」のために書かれた本である。さらには、「いじめられっ子」を守るべき立場にいる大人たちのために書かれた本である。その「いじめられっ子」を守るべき大人というのは、ほとんどの場合、その逆の「いじめっ子」をも守るべき立場にあるのではないだろうか?たとえば、クラス担任の教師である。念のため急いで付け加えておけば、この際の「守る」とは、「いじめ」を正当化したり、加担したりという意味での「守る」ではない。「いじめっ子」がいじめざるを得ない状況にいること、そういう状況から脱却し、いじめを止めることが可能になるようにトリートしていくこと。そういう意味での「守る」である。

 私は、こういう分野はまだほとんど勉強していないので知らないが、そういう方向性で書かれた書物もきっとあるのだろう。中井久夫のこの書物が、そちらの観点を書いていないということで、欠点になるということは決してない。そういうことを言いたいわけではない。

 「いじめられっ子」と「いじめっ子」の双方に的確な対処をしなければならない教師という職業は、たいへんだな、と思うのみである。教師を始め、子どもたちとつねに向き合って仕事する立場の人々は、大変だな、と思うのみである。

 スーパーマンとか、ウルトラマンとか、マグマ大使のような人でなくては務まらない仕事なのだろうか?そんな超人技を繰り出せる人は、いったい、日本に何人いるのだろうか?

 もちろん、いやいやそうではなくて、世のふつうの大人が、ふつうに子どもに接するように接していればいいのだよ、などと、解決策を提示する、というようなことはここではしない。ふつうってなんだ、なんてことも、ここでは深追いはしない。

 そうそう、いまや、実の両親のもとでの子育てすら、一個の奇跡のようにしか成り立ちえないようにも見える状況がある。

 ここでは、問題を投げかけたまま、投げ出しにして、唐突に終わることにする。

 

 



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