ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

山浦玄嗣 3・11後を生きる 「なぜ」と問わない TOMOセレクト 日本キリスト教団出版局

2015-12-17 07:09:40 | エッセイ

 これは、2011年7月24日に、東京のカトリック成城教会での講演をもとにつくられた本とのことである。77ページの薄い本で、ブックレットと呼ぶべきものだろう。しかし、内容は深い。

 第1部は、被災地からの叫びと題して、実際に津波に襲われ、自宅2階に逃れて助かったのちの状況の報告である。医院を再開し、教会に拠って地域の人々を支えた記録。

 

 「それにしても、気仙の人間というのは昔から実に陽気です。こんな大変な目に遭いながらも集まってくる連中は、みんな実に愉快なのです。冗談を言いあっては笑っています。」(36ページ)

 

 このあとにすぐ、「もちろん、今回のことでは泣く人もたくさんいます。」と続くのだが。ここは、気仙の地域の人々、気仙衆(ケセンシ)に共通する基本的な性格のことであると同時に、優れて山浦玄嗣個人の資質である。お会いしてみると「実に愉快」なお人柄である。見るからに根本的なやさしさが溢れだしているようなおひとである。念のために言っておくが、これはお世辞でもなんでもない。生来の性質だというだけでなく、深い学識と経験に裏打ちされたものだと思う。信仰だといえば、その通りなのだが、そうだとすれば深い思索に裏付けられた信仰である。

 

 第2部は、災禍とキリスト教。

 その直前、第1部の最後の章は〈「なぜ」と問うこと自体意味がない〉というもの。

 

 「震災後少し落ち着くと、私のところにテレビ、新聞、雑誌などのインタビューが殺到してきました。今回の震災の模様や体験、感想を聞きたいというものでしたが、それは私が医者だからではなく、ケセン語聖書を翻訳したからです。」(47ページ)

 

 「気仙の人たちはとても信心深い人々です。キリスト教徒は少ないですが、みんな熱心な仏教徒です。お寺さんをとても大事にしています。けれども、「なんで、阿弥陀様がわれわれをこんな目に遭わせるのか」とか、「なんでお地蔵さまは助けてくれなかったんだ」などと、ばかなことを言う気仙衆は一人もいません。そんなことは夢にも思わないのです。」(48ページ)

 

 それに対して、取材者たちは、こう問いかけると。

 

 「そして、彼らが言いたいのは、「お前たちが拝んでいる神さま、仏さまは、お前たちを見捨てたではないか」「お前たちの信心はなんだったんだ」「何のために今まで信心してきたんだ」という避難めいた問いかけなのです。/これは非常に質の悪い言い草です。」(49ページ)

 

 第2部の冒頭近く、イエスの最期の時の有名な言葉について書かれている。

 

 「イエスは十字架にかけられて、死ぬ直前に「エリ、エリ、レマ、サバタクニ」と叫びます。…(中略)…これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。」(50ページ)

 

 しかし、これは決して絶望の言葉ではないのだという。「詩編にあるダビデ王の雄渾な詩」を引用しようとして力尽きたのだと。

 それは以下のようなものである。聖書の新共同訳だとのこと。

 

 「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうともせず呻きも言葉も聞いてくださられないのか。

  わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方。

  わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われてきた。

  助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られてことはない。」(50ページ)(注:この後半は、この本の扉にも引用されている。)

 

 その後に続けて、

 

 「今回のような震災が起きたことを『不条理』と捉える向きもありましたが、そもそも生そのものが不条理とも言えます。魚は人間に食べられるために、ある日巨大な網にからめ捕られて殺されます。家畜の豚は、今日もえさがもらえると思って飼育員に走り寄ったら、屠(ほふ)られてしまう。人間だけ、そうした不条理にまったく遭わないという道理は通用しません。」(51ページ)

 

 先生は進化論を肯定なさる。しかし、進化論ですべてが合理的に、科学的に説明しきれるとおっしゃるわけではない。その先に、大きな謎が残る、不条理があるのだとおっしゃる。

 私も、そのさきの謎に対して人間は謙虚でなければならないと思っている。これまで、私なりに考えてきたひとつの結論として。この点、先生のお話は深く同意できるものである。

 この本の最後は、祈りという言葉について書かれている。

 先生は、聖書のケセン語訳に取り組む中で、ギリシャ語の語源に遡り、日本語で祈りと訳されている言葉の原語が、4つの別の言葉であることに気づかれたという。詳しくは、著書に当たっていただくこととして、私も、先生のおっしゃるような意味での祈りを共有したいものだと願っている。

 それは、金運成就だとか健康長寿だとかの功利的で合理的な願い事ではない。人間としてよりよく生きて行こうとする意思、のようなものだろうと思う。

 もっとも私自身は、クリスチャンではない。一種の仏教徒ではあるだろうと思っている。しかし、この祈りとはそういう宗派の違いを超えた何ものかなのだ。

もう、ほとんど「ケセン山浦玄嗣教徒」であるとすら言ってしまっていいというくらいだ。

 あと、ここでも、念のため言っておきたいが、岩手県の気仙地域と、宮城県の気仙沼は、隣接しており、大昔から一帯の地域であり、県の境はほとんど意味がないと思っているが、現時点では一応別の地域である。また、気仙沼の言葉は、厳密にはケセン語ではない。語尾など細かな点で相違はあり、しかし、ほとんど似たようなものではあるが、ケセン語とは称しない。

 まあ、私の千田の祖先は、江戸時代安永年間に亡くなっているが、今の陸前高田市の浜田から来たようだし、祖母の実家は、同じく陸前高田気仙町今泉の松坂という家なので、気仙衆だ、気仙沼も気仙の一部だとか、安易に言ってもいいのだが、そういうわけにも行かないところである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿