平木典子「自己カウンセリングとアサーションのすすめ」金子書房
平木典子「アサーション・トレーニング」金子書房
先日、休みの日にちょっと唐桑コミュニティ図書館(気仙沼図書館唐桑分館)に顔出したときに、玄関脇のリサイクルコーナーで見かけて貰って来た。ちょうど、リサイクルの古本市の最中であったが、このところは、気仙沼も本吉もつねに、入り口にリサイクル本は置いてあり、ご自由にお持ち帰りいただくことにしている。
内容は、寄贈いただいたが図書館として利用できない本と、充分に利用して古くなり、貸し出しには適さなくなったが、個人的な利用にはまだ耐えるかなといった本。
平木さんのこの2冊の本は、図書館の印が押されておらす、寄贈されたが受け入れしなかった部類のようだ。一方が1993年、もう一方が、2000年の初版で、ノウハウを伝えようとする本としては、内容的に、いささか古くなっていることもあり、もうひとつは、心理テストみたいなものを、実際に書き込むようになっていて、そういう類いのものは、多数の利用者に貸し出す図書館としては、そぐわないということがある。実際、鉛筆でテストの該当項目に鉛筆で丸が書き込んであった。
平木典子さんは、心理カウンセリングの世界では、有名な学者。跡見学園女子大学の教授をされていた。「アサーション」という技法を日本に持ち込んだ最初の方であるようだ。
さて、アサーションとは何か。
「適切な自己表現」ということになるようだ。「それは、自分も相手も大切にしようとする自己表現で、自分の意見、考え、気持ちを正直に、率直に、その場にふさわしい方法で言ってみることです。」(「自己カウンセリング…」98ページ)
それに対する別の自己表現は何か。つまりは、あまり適切ではない自己表現、できれば避けた方がよい自己表現ということになる。
それは実は、2種類ある。
「非主張的、不十分な自己表現」がひとつ。もうひとつは「攻撃的・過剰な自己表現」ということになる。
具体的にどういうことなのか説明されなくても、その言葉だけで、あまり適切でなさそうだとは想像がつく。まあ、言ってみれば、あえて、新たな技法として説明されなくても、常識的な人付き合いの中で体得されていくようなことでもある。
なにか、こういうアメリカ由来の技法、「ハウトゥー」というのは、批評したくなる思いはある。アメリカ的なプラグマティズムだよねえ、とか、金持ちの日常生活に活用される、というか、濫用される精神分析とか。法律家のはびこる訴訟社会とか、それぞれのノウハウを持った専門家でないと、何も解決できないとか。それでやれやれ、とか思ったりするのだが。「エヴィデンス」だとか、どうもあまり好きでない。おっと、これは、この本自体とはほとんど関係ないところまでおしゃべりしてしまった。
実は、私も、「産業カウンセラー」の講座に通って、資格取得したりしていて、また、市町村職員研修所にいた時代は、この手のひと付き合いだとか、コミュニケーションだとか、コーチングだとかの研修も提供する側にいた。
で、実は、こういう技法は、やはり役に立つのだ。
日常のひととの付き合いのなかで、自ずから学ばれるもの、であっても、もういちど、学問的に整理しなおして、技術として教えられる機会というのは、やはりあったほうがよい。職場の中で「アサーティブ」な振る舞いというのは、確かに、役に立つ。気持ちよく仕事できるのも確かだし、全体としてパフォーマンスが上がるのも確かだ。もちろん、カウンセリングの「傾聴」だとか、「価値判断を控える」みたいな技法も役に立つ。
世の中の人が、もう少しこういう心理的な技法を学べば、もう少し世の中は暮らしやすくなるということも確かなことに違いない。
ということで、こういう本を読んだり、そういうセミナーに出てみたりすることは、大変役に立つことであることにも間違いはない、ということになる。
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