NHKの「とと姉ちゃん」を見ていて、片桐はいりが出てくると、泣けてしまう。
今朝のシーンの、戦後の現在の困窮した生活に同情して泣くのではない。
彼女が、女学校の教師として、その生徒たちに語った「原始、女性は太陽であった」という平塚らいてふの言葉、それを反芻するたびに泣けるのだ。
平塚らいてふから受け取ったその言葉を、教師として生徒に語り伝える。受け取った髙畑充希が、その言葉に育てられ、戦後の新たな庶民の暮らしを創出する雑誌を作り上げる。
この言葉の力、教育の力、理想を掲げ実現していく力。
これは権力者の言葉ではなく、分断する、競わせる、つぶし合う言葉ではない。
庶民の、連帯する、平和な日常の暮らしを、よりよく成り立たせていく言葉だ。
片桐が、「50歳を過ぎても、教育者として現役である。」という趣旨を語ると、髙畑が「あと10年は継続するのですね。」と答える。
「いや、50年よ!」と、断固として、片桐が宣言する。
図書館について、ある年若い友人が、10年、20年先を見通したものでなくてはならないですね、と語った。
それは、もちろん、現在の社会のほんとうに目先にとらわれた経済効果優先の考え方に対するアンチテーゼの言葉であったことには間違いない。
まだ、20歳代の彼にとっては、10年、20年というのは十分な長さの時であるに違いない。
しかし、私は、とっさに「いや、あと、最低50年だね。」と返答してしまった。
私が、今回、図書館に勤務して、7年目となっている。当初4年務めていたので、通算では11年。10年後を見据えるでは、あまりにも短すぎる。
100年は、継続するものでなくてはならない。しかし、あと100年後がどんな世界であるかは、想像もつかない。
50年後。
そのときには、私はもう生きてはいないはずだ。その友人がほぼ80歳になろうとするとき。
そのときの図書館はどうあるのか。堂々とここに存続してあるか。少なくとも、そこは、イメージしていなくてはいけない。そういうふうに私は、とっさに思ったのだろう。
気仙沼図書館と本吉図書館は、創設されて100年は経過している。菅野青顔の時代に新築され、つい最近解体の始まった旧気仙沼図書館の建物は、ほぼ50年を経過したところだ。
これから新築される図書館は、少なくとも50年先を見通している。今いまの風潮のみに掉さして、目先の変化することのみにとらわれる、そんなことはあってはならない。堂々と変わらずにあること。
よりよく変わるために、変わらずにあるべきところは変えないこと。
変えればいい、何が何でもかわらなくてはならない、などということはない。
そういうことだ。
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