内田樹である。
2015年9月発行で、間もなく入手しているが、少し塩漬けしていた。いや、塩漬けというのは、内田氏が自分が書いた原稿を、書き終えてしばらく手元に置いておいて、その後見直して手直しを入れるその期間のことをそう表現しているんで、買って単に積んでおいたものを塩漬けと表現するのはそぐわない話だが。
ここ数年、内田氏の本は結構読んでいるんで、まあ、ちょっと間をおこうか、などとは考えていたところだった。かなりの点数が出版されていて、すべてを追いかけられないな、とは思い始めてもいて。
しかし、先日、図書館の新刊コーナーにあった岩田健太郎著「医療につける薬」というのが、鷲田清一氏と内田氏の対話で、そうそう、今読むべきは、鷲田、内田だよな、との思いを再確認したところだった。
で、「困難な成熟」。
成熟とは、困難なものであるという。促成栽培で成熟した野菜、と言われて食べたいと思う人はそんなにいないだろう。
ごく普通に時を重ね、季節を巡って成熟した野菜こそ、美味いに違いない。
人間においても同様のことに違いない。
内田は、その師レヴィナスの言葉も引きながら、この条理を語る。
「ある日気がついたら、前より少し大人になっていた。/そういう経験を積み重ねて、薄皮を一枚づつ剥いでゆくように人は成熟していく。ロードマップもないし、ガイドラインもないし、マニュアルもない。そういうこみいった事情を僕は「困難」という形容詞に託したつもりです。」(まえがき 6ページ)
すぐ続けて、
「この本がこれから大人になっていく少年少女青年たちにとって少しでも役に立ってくれるとうれしいです。」(7ページ)
とあり、本の帯には「14歳から読みたい」とも記載あるが、中学生では、ちょっと難しいかもしれない。なんというか、難しい術語満載とかいうことではなくて、書いてある中身を分かるためには、それこそ、一定の成熟が必要とも思える。
しかし、そうだな、高校生なら、一定程度、読み進められるだろうな。手に取って読んでみてほしい、とは言えるな。いまは、分からなくても、読んでおくべき本というのはあるものである。のちに、ああ、と分かってくる、ような気がするとか。
さて、そうだな、第3章「与えるということ」を読んでみる。経済のこと、贈与のこと。
ちなみに、経済というのは、金儲けのことではない。
私たちが生存していくうえで必要なモノをどう手に入れるか、個人として手に入れるというより、社会が必要な人に必要なモノをどう配分するのか、こそが経済であり、その語源である「経世済民」を考えれば、よく分かるということになる。
しかし、ここで内田は、「必要なモノの配分」ですらないのだと語る。
「交換の目的は、それによって「何か価値のあるもの(メッセージや性的配偶者や財貨やサービス)を手に入れること」ではありません。ぎりぎりまで削ぎ落とした交換の本質は僕たちに「存在していることの根拠を与えること」なのです。」(202ページ)
もっとも、これは、「必要なモノの配分」であるということを否定するということではない。「必要なモノの配分」を通して、人間が人間として存在しているその根拠をもたらすものであると言っている。
なるほど。
そして、「交換」は、「贈与」から始まるのだが、それは、ある人間が意図して始めたものではないのだと。
「贈与は自己を起源とする主体的な行為ではありません。贈与はそれ自体「すでに贈与を受けてしまったことの結果」なのです。」(203ページ)
人間は、すでに誰かから何ものかを与えられていて、すでにもらい物をしている、贈与を受けているというところから、次の贈与が始まるのだと。
「贈与経済について考えている人のほとんどがその点について勘違いしています。」(203ページ)
Aさんが、Bさんに贈与した、次に、そのBさんがCさんに贈与する、というふうに始まるのではない、ということです。
ことのはじめのAさんは、現実には存在しなかったということ。Bさんが、だれかから、あるいは、何ものかから贈与を受けたと思った。すべてはそこから始まった、というようなこと。
キリスト教などの一神教的に言えば、最初のAさんとは神である、人間ではない、ということになるが、まあ、それはここでは置いておいて。
「あなたが「すでに贈与を受けた」と感じているかどうか、それだけが問題なのです。」(204ページ)
「贈与は「私は贈与した」という人ではなく、「私は贈与を受けた」と思った人の出現によって生成するのです。」(207ページ)
と、まあ、そんなことが書いてある。
人間とは、受動的なものなのである。
「みなさんにして欲しいのは、ユーミンが歌ったとおり、「目に映るすべてのことはメッセージ」ではないかと思って、まわりを見わたして欲しいということ、それだけです。」(216ページ)
あと、「おせっかい」が必要だとか、「悪は局在するという誤解」がある、だとか、いつもながら、読むべき内容が詰まっている本である
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます