ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

熊谷達也 リアスの子 光文社

2014-01-07 22:54:10 | エッセイ

  小説家熊谷達也の新作。カヴァーの絵は、気仙沼湾。安波山から見た気仙沼湾、気仙沼の街。

 今朝の三陸新報に、菊田清一氏が、すでに、「感動した」と感想を書いていらっしゃる。ちょっと出遅れてしまった。

 熊谷達也氏は、もと、中学校教師、気仙沼中学校にも赴任していた時代がある。そのときの記録ではなく、ノンフィクションというわけではない。小説作品、フィクションに他ならない。恐らく、主人公、ああ、語り手の30代の男性教師を主人公と呼ぶべきなのか、そうではなくて、メインの物語の運び手(というのかどうか)の転校生の女の子は、明確にフィクションなのだと思う。

 しかし、それ以外の登場人物は、中学生たちも同僚の先生たちも、モデルがありそうだ。いきいきと描写された人物たちは、実在の、かつてのかれの教え子たちにほかならない。(実際、フェイスブック上で、熊谷氏のかつての教え子たちが、あれは、同級生の誰それだと語っている。)あだ名で呼ばれる先生も、どうやら恐らくあの先生ではないかと、私にも想像のつく人物がいる。

 そして、なにより、気仙沼の人間にとって、描かれる場所が、架空の地名ではあっても、似たような名前で、まさしく、実在する場所であることが明らかだ。

 たとえば、転校生の女の子が、早朝にさっそうと駆け抜けてくる大川端の、まさしく春の桜並木。(実は、この女の子が、さっそうと駆けてくるというのは、物語の展開上、重要な転回点なのだが。)

 今となっては、津波の後、立ち枯れはじめ、最近伐採されてしまった大川の桜並木。

 彼の小説は初めて読んだ。正直に言うと、直木賞系の小説家はほとんど読んだことがない。ちなみに、最近は、村上春樹と村上龍と高橋源一郎と山田詠美と丸谷才一で、めいっぱいというところ。偏っている。外国の小説も、村上春樹訳のものを若干読んだくらい。

 だから、この小説が、どれほどの位置にあるものか、日本の現在の小説の中でどういう位置にあるのか、彼の作品の中でどういう位置にあるのか、明確には言うことができない。

 しかし、正直に言ってしまうが、この小説を読んで、私は感動した。後半、何度も泣いた。気仙沼が舞台だから、ということもあるのだろうが、それだけではない。

 熊谷氏が、中学校教師であった経験からこそ生まれた小説であることは間違いがない。優れた学園小説なのではあるだろう。優れた教育論小説とも言えるのかもしれない。

 東京から転送してきた問題の多い女子中学生と担任の30代の教師が触れ合い、ぶつかり合う小説。教師が、どういうふうに子どもに相対し、行動し、教育するか。

 いや、簡単には教育するとは言ってはいけないのだろう。教師の行動が、むしろ、試行錯誤が結果として教育に結びついていくようなプロセス。そういう経験も踏みながら、教師が教師として成長していくようなプロセス。

 そうだな、たぶん、この小説は、現場の教師を勇気づけ、結果として励ますような類いの小説なのだろうな。

 気仙沼の人間として、この優れた小説の舞台が気仙沼であることは誇らしいことであると言える。そして、熊谷達也氏の当時の教え子や同僚の先生方が、こういう小説の舞台として気仙沼を選ばせるような純粋な、まっすぐなひとびとであった、ということもまた、誇らしいことに違いない。有難いことだ。

 ちなみに、この小説を原作として、気仙沼自体を舞台にした映画かテレビドラマが制作される、ということになったら、主人公にはこんな子、母親役は誰それ、同僚の先生方は、こんな役者たち、と想像を廻らすのも、また楽しいことだ。

 蛇足。佐武のマスター、当然、この本、もう読んだんだろうな。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿