ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

J.P.サルトル 安堂信也訳 ユダヤ人 岩波新書

2014-11-28 00:46:04 | エッセイ

 1956年1月の第1刷だから、私の生まれた年、7月生まれなので、生まれる半年前ということになる。で、2014年5月に第72刷。えんえん58年にわたって増刷され続けている。文字が昔の活字体のようだ。これは、テキストとして打ち直しせずに、昔の版を写真で撮ってそのまま製版しているということなのだろうか?まさか、活字のままで印刷しているということではないはずだ。

 だから、文字が少し読みづらい。印刷が微妙にかすれた様なところがある。こうして見ると最近の印刷は、かなり読みやすい字体になっている。世の中のすべてが、少しづつ便利・快適な方に進化し続けているわけだ。

 原著は、1947年。昭和でいうと22年。戦後間もなく。大東亜戦争の直後。いや、第2次世界大戦の終戦後。壊滅的な敗戦のあと。

 ヨーロッパでいうと、実は、あのアウシュビッツの収容所の、まだ生々しいとき。ほとんど現在とも言うべきとき。いまだ、「記憶」とよぶことのできないような時期。

 いま、サルトルの「自由への道」を少しづつ読んでいて、岩波文庫の第3分冊を買うついでに、目について買ってしまった。岩波新書であるから、時間を取らずに読み終えることができるだろうと。

 この本は、ユダヤ人とは何かという疑問に分かりやすく答えてくれる本ではない。

 むしろ、われわれは何か、どういう存在なのかを考えさせられる本というべきかもしれない。

 ヨーロッパにおけるユダヤ人は、ある意味で、アメリカ合衆国における黒人、ひょっとすると日本におけるいわゆる在日と似たものなのかもしれない。

 で、実は、内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)という本がある。

 「サルトルは、ユダヤ人とは実定的な存在ではなく、反ユダヤ主義者が幻想的に表象したものであると主張してユダヤ人問題にけりをつけようとした…(中略)…。サルトルによれば、私たちが自然的な現実であると思い込んでいるものの多くは(人種も、民族性も、性差も)イデオロギー的に構築されたものである。/サルトルの思想的盟友であったシモ―ヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉は社会的構築主義の本質を語った古典的名言であるが、それはそのまま「人はユダヤ人に生まれるのではない、ユダヤ人になるのだ」という言明に言い換えることができる。」(内田40ページ)

 内田は、こういうふうに、サルトルの『ユダヤ人』を良く読み込んで、それも踏まえて書いているので、「ユダヤ人とは何か」を現時点で究明するには、サルトルなど読まず、内田の本を読んでおけば間に合う。言うまでもないが、サルトルと内田と比較して、内田の本の方がずいぶんと分かりやすい。

 上の中略した部分は「(もちろん、けりはつかなかった。けりがついていれば、今頃私はこんな文章を書いてはいない。)」というカッコ書きである。未だけりがついていないことについて、内田樹が、力を尽くしてけりをつけようと探求しているのだ。

 ということで、いまさらこんな時代錯誤の本を読む必要はなさそうである。

 だいたいが、いまごろ「社会主義革命こそ問題を解決する手段だ」などといっているのは時代錯誤以外の何ものでもないとも言える。

 実は、ああ、そうか、サルトルは、こんなにもあからさまに社会主義革命を賞賛し、その必要性を説いていたのか、とびっくりしたところでもある。

 

 「われわれにとって、人間は、なによりも、『状況(シチュアシオン)にある』存在として定義される。これは、人間が、その生理的、経済的、政治的、文化的、その他彼の状況によって総合的全体を形づくっていることを意味する。人間を、その状況から区別することは出来ない。なぜなら、それが、人間を形成し、人間の可能性を決定するのであるから。そしてまた逆に人間は、状況の中において、状況によって、自己を選ぶことにより、状況に意味を与えるのである。状況にあるということ、それは、われわれの考えでは、状況において、自己を選択することである。従って、人間の差異は、その状況が互いに異なることと、自己においてなされる選択の違いによって、起きて来るのである。人間すべてに共通なものは、性質というようなものでなく、条件、即ち、限界と、制限の集まりである。どうしても死なねばならぬとか、生きるためには働かねばならぬとか、既に他の人間達が住んでいる世界に後から存在せねばならぬとかいう必然性である。」(69ページ Ⅱユダヤ人とは何か)

 

 これは、例のサルトルの「存在は本質に先立つ」という話だ。

 そう言われても、本質とは何か、存在とは何か、というのは、哲学的な用語なので、説明なしに分かるということではないが、まあ、「人間には宿命があって、生まれる前から人生は決まってしまっているのだ」ということはないのだということである。しかし、生まれた後で、人間を取り巻く状況、家族とか世間とか社会とかがあって、人間が決まって行く。

 一方、そういう条件で人間が全て決まるかと言うとそういうことでもなく、人間は自由であり、自らの遺志で選択し決定していくことができる。

人間とは、受動と能動の組み合わせなのだ。

 私は、いったんは気仙沼を出て首都圏で暮らしたことがある。そのまま東京で仕事して暮らす人生もありえただろうし、それを想像することもできる。しかし、気仙沼に戻って暮らしてもはや30年を超えた。今の私は、生まれ育って、再び戻って就職した気仙沼を抜きにしては存在しえない。いやもちろん、どこかに転居することがあればそれはそれで私として生きていくわけではあるが、気仙沼を抜きにしては、今の私という人間を規定しえない。理解してもらうことができない。分かってもらうことができない。万が一転居するとしても、気仙沼で三十数年間暮らした結果としての私であるほかない。

 しかし、一方で、気仙沼において何事かは行ってきたわけで、いささかなりとも地域にその結果は残してきたことにはなる。大きな貢献としての成果を上げたとかいうことではなくて、誰でも何ごとか行動すれば、成功なり失敗なりの結果はもたらされるという意味合いで。行動によって周囲は変わるのである。地域は変わるのである。良く、あるいは、悪く。(もちろん、いささかでも良く、とは願うところだ。)

 人間は自由であるが、それは、常に無から有を生み出す自由なのではなく、既にあるものに囲まれて、その組み合わせを少し変えることができる選択の自由なのだ、というようなこと。

 これは、まさしくそういうことである。70年前の終戦後においても、21世紀の現在においても、全くそういうことに変わりはない。

 このあたり、実存主義を語ろうが、構造主義を語ろうが、実は大した違いはない、ということでもある。

 人は、ことの最初、生まれ落ちる前から日本人であるのではなく、日本という状況の中に生まれ育つから日本人になるのである。日本人の親から生まれて日本という状況の中で育つから日本人になると言ったほうがいいか。外国人の親から生まれて日本という状況の中で育つという場合には、また、別のことになる。

 ユダヤ人も、生まれる前からユダヤ人であるわけではない。これはフランス人でも同様である。

 しかし、ユダヤ人の場合、状況がまた違っているのだという。これは、反ユダヤ主義者というものの存在が大きい。フランスなどのヨーロッパの国、キリスト教国におけるユダヤ人の存在、逆に、反ユダヤ主義者の存在。

 

 「事実、われわれは、一般に拡がっている見解とは逆に、ユダヤ人の性格が反ユダヤ主義を引き起こしているのではなく、反対に、反ユダヤ主義者が、ユダヤ人を作り上げたのだということを見てきた。」(177ページ Ⅳユダヤ人問題はわれわれの問題だ)

 

 このあたりの経緯は、本を読んでいただきたい。ユダヤ人とは何かを知るためであれば、このサルトルの本自体よりも、内田樹氏の本の方がお勧めである。

 しかし、サルトルもその一員であるフランス人がその国の中でユダヤ人を作っているということ。これは、そうだな、日本人が朝鮮、韓国人をどう取り扱ってきたかということと重なる問題となる。そういう一種普遍な人間の在り方を学ぶ、という意味合いでは、この本は、今でも大きな意味を持つとは言えそうだ。

 しかし、サルトルの時代は、社会の矛盾は、社会主義革命を起こせば解決するという大きな物語を信じることができた。信じるまでは行かなくとも、その可能性に期待することだけはできた幸福な時代だった。

 いまは、革命という大きな夢を抱くことはできない時代となった。

 もちろん、そこはそこで、幸福があり、楽しみもある、しかし、もう一方で、不幸は続き、苦しみも続く。分かりやすい解決は見えない、そんな時代になったとも言える。

 どっちがいいのか、それはそう簡単には答えの出るような問いではない、とだけは言っておこうか。

 この本の末尾は次のような言葉である。

 

 「ユダヤ人が彼等の権利を完全に行使できぬ限り、フランス人は一人として自由ではないのである。フランスにおいて、更には、世界全体において、ユダヤ人がひとりでも自分の生命の危険を感じるようなことがある限り、フランス人も、ひとりとして安全ではないのである。」(189ページ)

 

 これは宮沢賢治の菩薩行と同じことを言っている。それはまさしくそういうことだ。

 しかし、現在、パレスチナ人の存在を知っているわれわれは、この言葉を言葉通りに受け取ることができない。では、どういうふうに言い換えればいいのか。

 その答えは、ある。あるけれども、安易なことではない、とだけ、今夜は言っておこう。と、とりあえず放り出して逃げる。夜も更けた。

 このことについては改めて書くこともあるだろうと思う。


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