シリーズケアをひらくの一冊。
栗原康氏は、早稲田の政治学の大学院博士課程から、東北芸術工科大の非常勤講師とのこと。専門は、アナキズム研究だという。
文体は、軽々しい。パンキッシュである。アナーキーin the UK。
〈はじめに〉で、「近代看護の母」とか「クリミアの天使」と呼ばれ「道徳の教科書みたいなイメージ」で、「世のため、ひとのため、清く、正しく、美しく…そういうのにはヘドが出る」、と思い込んでいたパンクな栗原氏は、「ナイチンゲールの自伝的小説…を読んで、びっくり仰天。このひとぶっとんでいるよ。…イメージがひっくり返されたのだ」とおっしゃる。(p.4)
イギリスの上流階級、大富豪の娘に産まれたナイチンゲールは、「結婚を拒否しつづけ、看護の道をきりひらく。男に依存しなくても、女は生きていける。…あとさきなんて考えなくていい、没落してもいい。いざ看護婦になれば、感染症がひろがっているその現場に。みすから進んで身を投じていく。たとえそれで命を落としても…」と、まあ、鼻息が荒い。
彼女は「近代的な人間を超えてしまっているのかもしれない」。合理的な将来のリスクの心配など突き抜けてしまっている。栗原氏は、「ニーチェのことばを借りて、それを「超人」と呼」びたいという。
「19世紀のイギリスに「超人」があらわれた。はりつけ、上等。このひとを見よ。えらいこっちゃ。わたしが世界を救うんだ。自分の将来をかなぐり捨て、看護のいまを生きていく。ケアの炎をまき散らす。その火の粉を浴びて、あなたも私も続々と「超人」に生まれ変わっていく。
みんなナイチンゲールだよ。いくぜ。」(はじめにp.5)
さあ、ここから、極上の、ぶっ飛んだライブが始まる。
中身は読んでのお楽しみ。
さて、終章、本文の最後に、アナキスト栗原康氏は、「国家にケアを奪われるな」(p.256)と記す。
ケアは、マニュアルとかルールとかに縛られた型どおりの作業ではない、人間と人間が交わり合う根源的なエネルギーに満ちた営みである、ということだろうか。
この書物は、日本のアナキストが、連合王国のアナキストを描いたパンクな一冊、というべきだろう。
〈おわりに〉のエピグラフとして、ランボーの詩「永遠」から「また見つかった、何が、永遠が、海と溶けあう太陽が」が引かれる。
ケア、看護の世界に、繰返し繰返しナイチンゲールのようなパンクな存在が現われることを願っているということだろうか。
蛇足だが、「永遠」は、私は次のように語る、かな。
とうとう見つけたよ
何を?
永遠を
それは
太陽と一緒に行ってしまった
海
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