ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

柴崎友香 あらゆることは今起こる 医学書院 2024

2024-11-03 17:09:27 | エッセイ オープンダイアローグ
【小説家であること】
柴崎友香氏は、1973年生まれの芥川賞作家とのこと。
 著者紹介に「人文地理学専攻で、場所の記憶や建築、写真などに興味がある」とあり、帯には「私の体の中には複数の時間が流れている」と大きな文字で記されている。
その下部には小さな文字で「ある場所の過去と今。誰かの記憶と経験。出来事をめぐる複数からの視点」、裏を返すと「他人は自分と感覚が違う、世界を認識する仕方が違う。自分は自分の身体や認識しか経験できない。人の感覚を、認識を、絶対に経験できないからこそ知りたい。その興味と欲望はどうやら私の根源的なもので、ますます盛り上がってきているらしい」と記される。
 人間はひとそれぞれ別の経験を有する、小説家であれば、そのことに興味関心を持つ、ということは、然るべきことであろう。「体の中に複数の時間が流れている」というのは、小説家として他のひとに興味関心を持ち物語を紡いで行こうとするときに、私と他のひとと複数の経験を書き進めていく、そのとき、各々の時間軸を想定して、という事態を言い表すレトリックだとすれば、想定内のことであろう。それほど奇異な文章ではない。
 バフチンが、『ドストエフスキーの詩学』において語るポリフォニーのこと、といえばそうだろうか。

【ADHDの当事者であること】
 しかし、帯の中にはこういう文言もある。

「ADHDの診断を通じて、小説家が自分の内側で一体何が起こっているのかを考えた。」

 なるほど、著者はADHDの当事者であるという。注)

注)ADHDとは、「注意欠陥多動性障害attention deficit/hyperactivity disorder」であり、「一言でいえば、自己コントロールがうまくできず落ち着きのない子で」、詳細は省くが、「注意集中困難」、「多動性」、「衝動性」の「3つの特徴を持っている」(滝川一廣『子どものための精神医学』医学書院2017)

 ADHDの当事者だからこそ、「体の中に複数の時間が流れている」ということなのだろうか?

「私は今までに自分がいたいくつもの世界を、ずっと同時に生き続けている。」(p.5プロローグ)

 そういう感覚を持つ人は、柴崎氏ひとりではないということらしい。

「たぶん、…複数の時間や世界が並行して存在している感覚を持っている人が、私の他にもたくさんいる…」(p.5プロローグ)

【診断の意味と服薬の効用】
 ADHDの診断を受けることについては、次のように記される。その線とは、ADHDであるのか、そうではないかの境界線である。

「私も最後の診断の一言の直前までは、その線のどちら側になるか、グレーゾーンなら何パーセントかを気にしている状態だった。しかし、…診断は「境界線のどちら側か」でも「何パーセントのグレーか」を決めるものでもないと思った。…
 今の私のイメージとしては、検査と診断を受けることは「地図」を作ることに近い。等高線のある山の地図が説明しやすいイメージだろうか。」(p.23)

 氏は、医師の処方により、コンサータという薬を服用されているとのことで、

「最初の一錠を飲んで約二十分後、頭がすっきりしているとは感じた。常に後頭部にくっついていたもわもわしていたものがない!という感じがした。そして、目が覚めている!という感覚を三十六年ぶりに実感して、これはすごいと感動した。
 しかし、おおまかに言ってそれだけである。」(p.63)

 その効用については、次のようなことである。

「劇的に頭の中が静か!思考が整理されている!みたいな感覚を体感することがなかったので、差が分からなかったのだが、確かに薬を飲んでいるときはぐだぐだ度がもうちょっとはましだ。コンサータが効いているときは二割ぐらいできるところが、飲まないときは一割以下になる感じ、劇的な変化はないがいちおう飲んでいるときはましということかー、うーん……。」(p.65)

【足に合う靴】
 後半に、靴の話が出てくる。自分の特性について知ること、特性に適切に対処していくことの大切さを述べているということになるのだろう。

「足に合う靴を履いてみて、靴を履くとは、歩くとはこんなことだったのか、と四十四歳にしてはじめて体感した。…
 合うサイズの靴を履けば、歩くとはこんなにも軽く、しっかりと自分の身体を支えられるものだったのか。私に合う靴がこの世にちゃんとあったのか。…
 つらいこと、痛い靴を当たり前だと思って耐えているとも思わず、耐え続けている人に、別の靴をはいてみる機会が機会があればいいなと思う。」(p.120)

 これは、須賀敦子の書物の、あの素晴らしい書き出しを思い出させる。
 
「きっちりと足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いて行けるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。」(須賀敦子『ユルスナールの靴』白水uブックス2001 河出書房新社1996p.11)

 この書物は、ADHDの当事者による、貴重な記録というべきである。ADHDの特性の報告となっている部分と、作家としての感性、思考の記述である部分と、明確に切り分けて、ここで紹介できればなおさら良いのかもしれないが、そもそも、そんなことを試みても意味のないことなのかもしれない。
 精神保健福祉士を目指して勉強中の身とすれば、もういちど読み返して、そこの問題に挑戦すべきなのかもしれない。
 そのあたりは、今後の課題とさせていただくことにしよう。


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