1994年初版で、96年の第3刷。前に読んでいる本だが、妻が押し入れかどこか片づけをしていたら出てきたということで、これは、再度読んでみようと思った。青春の夢と遊び。いま、読むべき本と思えた。
いや、すでに読んだ本だったかどうか、定かでなかった。読み始めて、ああ、確かにいちど読んでいると分かった。
河合隼雄は、文化庁長官であったなどというのはごくついでのエピソード程度のことであって、すべてを包み込んでしまうような大きなやさしい語り口、実際に会ったことはないので本当のところは分からないが、丸ごと受け入れてもらえるかのような傾聴、そういうものを備えた心理療法家である。
スイスのユング研究所で学んだユング派の精神分析家。
このひとの本は、それなりに読んでいるが、多数の著作の一部に過ぎない。しかし、そのすべての本は、私にとってとても大切なものだ。
さて、「青春の夢と遊び」、この本は、1994年が初版だが、当時、河合にとって、はじめての青春期を取り扱った本だったらしい。子ども、中年、老年についてはすでに著作を著していた。青春期こそ、心理分析にとってはもっとも需要の多い時期、人生においてもっとも不安定な、支えの必要な時期であると思われるが、その年齢期についての著作が最後になっているのだと。これは、意外なことだ。
青年期のこころの在り方について述べるにあたって、河合は何冊もの小説を取り上げる。
「これからいろいろな文学作品を取り上げるが、それは『文学』を論じるためではなく…(略)…ひとつの例として、実際にあったことのようにして取り扱って論じていることである。筆者は心理療法家として、多くの青年期の実例に接しているが、あまり詳細にわたってそれらについて述べることは許されていない。」(6ページ)
それは、もちろん、個人の秘密を守るためである。しかし、同時に、それらが、人間のありようについて、深いところでよく語り、よく描かれているからにほかならない。
ヘルマン・ヘッセ『青春彷徨』、夏目漱石『三四郎』、宮本輝『二十歳の火影』、田中康夫『なんとなく、クリスタル』、三田誠広『僕って何』、吉本ばなな『TSUGUMI』、大江健三郎『人生の親戚』 村上春樹『羊をめぐる冒険』 グリム童話「二人兄弟」 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』、E・T・A・ホフマン『黄金の壺』、吉本ばなな『アムリタ』、大江健三郎『キルプの軍団』、今江祥智『牧歌』、漱石『坊ちゃん』
小説以外では、ギリシャ神話から、デーメ―テールとペルセポネー、北欧神話のパルズール、そして『古事記』、また多田道太郎『現代風俗ノート』、ホイジンハ『ホモ・ルーデンス』、カイヨワ『人間と聖なるもの』。
さて、河合は、第3章「青春の夢」で、ホフマンの『黄金の壺』を参照しながら「夢と現実」について語る。
「ホフマンの作品においては、『現実』とファンタジーが微妙に交錯する世界が示された。主人公のアンゼルムスは何度も『妄想』に取りつかれていると言われたり、精神病者のように言われたりした。しかし、結果としてはすべてがめでたくおさまり、アンゼルムスの体験したことは、すべて意味があったことが明らかになった。つまり、アンゼルムスの体験したことはすべて『現実』のことなのであった。/いったい『現実』とは何であろう。…(中略)…そもそも『現実』ということが、それほど明確でなく、そこにはさまざまの現実がある、と考えはじめると、夢の方もある種の『現実』として見るべきだということになる。/夢と現実を明確に区別するのではなく、それらを同等の『現実』として見る方が、いいのではないだろうか。」(109~110ページ)
実際、ひとによって「現実」はずいぶんと違うものである。現実の捉え方、というか。同じ地域に住んでいるとか、同じ職場で仕事しているとかいうひとびとも、よくよく話を聴いてみると、住んでいる世界が全く違うのでは、というくらいに世界の見方が違っていることがあるものだ。逆に言えば、世界観が近いひととは、ウマが合うというか話が合うわけで、そのほうが珍しいくらいだ。
ひとぞれぞれの夢の数だけ現実がある、人間の数だけ別の現実があると言っていいのかもしれない。いや、人間ひとりが複数の夢を見るとすれば、人間の数の数倍の世界が存在するとすら言っていい。
「この多層的なリアリティを生きることが、青年にとっての大きな課題である…」(137ページ)
第4章は「青春の遊び」である。
「一般的な考えとしては、仕事の方が遊びよりも高く評価される。『遊び人』という言葉には軽蔑の気持ちが込められている。…(中略)…このような一般的な考えに対して、遊び本来の意義を堂々と主張したのが、周知のように、ホイジンハの『ホモ・ルーデンス』である。」〈140ページ〉
「ホモ・ルーデンス」は、「遊ぶ人」と訳せる。「ホモ・サピエンス」は、われわれ現生人類の生物学上の学名だが、訳せば知恵のある人となる。この言い方をまねて、「笑う人」だとか、「言葉を話す人」とか、「直立歩行する人」とか、人間を他の動物、特に猿と区別する特徴を捉えて表現することがあるが、「遊ぶ人」、「遊戯人」もその一例である。
「ホイジンハは、それまでの仕事第一主義の考えを根底から覆えし、『文化は遊戯のなかに始まる』と主張する。確かに人間の営むことのなかで『文化』と呼べるものは、遊びから始まっていると言われると、なるほどと思われる。『文化』というものは、生きることの最低条件から見ると余計なこととも言えるわけだ。しかし、その余計なこととしての遊びがあってこそ文化も生まれるのだから、ホイジンハが遊びは「いかなる文化よりも根源的」というのもうなずける。/このように考えると、真の文化は何らかの遊び内容をもたぬ限り存続していくことができないということになる。そして、ホイジンハは19世紀以降、社会生活の組織化が進むにつれて遊びの要素が喪われ、マジメ傾向が強くなっていくので、そこに現代文明の危機が存在する、と警告する。」(141ページ)
私が息子を「遊人」と名付けたのは、ホイジンハ(むしろ私はホイジンガと呼んでいた。オランダ語の発音を日本語に移すときにどちらとも言えてしまうということだ。これは、オランダ語のひとつの現実が、日本語のふたつの現実に対応している実例とも言える。現実はひとつではないのだ。)の『ホモ・ルーデンス』を踏まえたものだ。「遊び人」にしようと思ったわけではない。結果、遊び人になってもそれはそれで良いとも思ったわけだが。
ただ、実は、『ホモ・ルーデンス』は読んだことがないのだが、カイヨワの『遊びと人間』という本は、学生のころに読んでいるし、哲学史の本に、ほぼ必ず『ホモ・ルーデンス』という言葉は出てくる。
この言葉が出てくるたびに、そうそうと膝を打ちながら読んでいた。人間は遊ぶべきなのである。遊びを忘れてはいけないのである。
同じ章で、河合は教育にも触れて書いている。
「遊びと教育など関係があるのか、と言われそうだが、このような項目を立てて遊びについて考えてみなくてはならないほど、日本の現代の教育は困難な状況にある。…(中略)…専門職についているような人を別にすると、学校教育というものは、人間が実際に生きていく上で役に立つことをあまり教えないことがわかるであろう。」(161ページ)
学校で学ぶ「豊富な知識は、実際生活と無縁のものである」と。
念のため言っておくが、これは、河合隼雄が、就職にすぐに役立つノウハウ的な実学を学べと主張しているということではない。
「ともかく『教育』が知識の吸収に重点を置くことになり、よい大学に入学するための勉強に時間をとられるので、一人前の人間を育てるという意味での教育は極端に忘れられてしまった。」〈162ページ〉
むしろ逆で、教育にも遊びが必要だということである。
この本は、私自身がいつ読んだのか記憶が定かでないが、読んで直後かしばらくたってからか、どちらにしても、たぶん5~6年前に、妻に読むことを進めたものだ。それで、本棚でなく、妻が少し読みかけてどこかにしまいこんでいた、という成り行き。いま読み直して、河合隼雄は、私にとってとても大切な著作家であると改めて思う。そして、この本を息子に読ませたいと切に思う。
生きていくうえで、生き延びていくうえで、とても深いところで役に立つ本である。
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