ふむ。
著者は、大阪大学で哲学を学び、大学院に進み、故郷の北海道の札幌大学教授を長く務めた哲学者である。処女作は、ヘーゲルに関する著作らしい。
哲学者として、名前は記憶にあったので(大坂大学総長を務めた「臨床哲学」の鷲田清一も哲学者であるが、別の人物として記憶はしていた。この二人、定かではないが、近い親戚関係はないようだ。)、図書館の新刊コーナーで目にして手に取ってみた。
プロローグ、「父はクールな観察者たれ」という小見出しで、「父親は簡単に息子のアドバイザーになれるなどと思い違いをしてはならない。むしろ息子の一挙手一投足を観察する役に徹する必要がある。あくまで『傍観者』(bystander)の態度を装ってだ。」(6ページ)
これは、確かにその通りだろうと思う。
同じくプロローグで「十三歳には、高校入試、大学入試、就職試験という、避けることのできない、勝負がはっきり決まる三大コンペ(競争)が否も応もなく待ちかまえている。この勝負に失敗すると、とてつもない墜落が、先の暗い未来が待っている、と思えてしまうのだ。」(12ページ)とある。
さて、これはどうだろう。
大学入試などの競争に失敗すると先の暗い未来、墜落が待っている、というのだ。
競争に失敗した人には、普通の明るい未来はない、とかれは言う。世の父親に対して、その息子が、人生の競争に勝ち抜くためのノウハウを授けよう、というのが、どうもこの本の趣旨らしい。
もっともここに「と思えてしまうのだ」という留保がある。競争社会の全たき肯定が趣旨なのではなく、いわゆる「競争の落ちこぼれ」をいかにすくい取っていくか、とか、さらに言えば、現今の競争社会を抜けたその先の在りうべき理想の社会を描くという文脈が展開されることも期待しうるところだ。
ところがそんなことはない。
「この十三歳から三十五歳まで、第一に必要なのは『勉強』(work)である。『激勉』(ハード・ワーク)なのだ。/総じて生物には、好むと好まざるとにかかわらず、『競争』のないところに『成長』や『進化』はない。/人間も放っておいたら、イージーゴーイングになる。努力をしない。極端にいえば、パラサイト、寄生虫の生き方をすることだ。ニート(就職・教育・訓練の拒否)であり、総じて勉強・仕事・家事という一人前の人間なら避けて通ることのできないワークから逃亡することである。」(31ページ)小見出しは「『競争』のないところに『成長』はない」である。
さらにこうも言う。
「グローバルスタンダードの中心は、アメリカンスタンダードである。貨幣(政治・経済)でも、言語(文化・芸能・学問)でも、メジャースポーツ(野球・バスケ)でも、ドル・米語・大リーグというアメリカンスタンダードが世界標準になっている。」(60ページ)
ふむ。「成長」や、「進化」か。「グローバルスタンダード」か。
こういうのは、一般的には、世の中の常識というものなのだろうな。これは全く正しい、のかもしれない。私も、私の実生活の中で、そういう考えを否定しきることはできないと思う。
(グローバルスタンダードに追いつくために必要な)「日本力の最低限度は、大学を出ないと身につかない。」(62ページ)最低限大学を出なければ、現在の世の中をまともに渡っていくことはできないというのだ。これも、確かにその通りなのかもしれない。冷徹な現実として。
だが、しかし、「哲学」というのは、こういうまったく現実的な考え方とはまた別の、「もうひとつの道」をこそ考えること、なのではないか。
確かに、私も、高校まで成績は良くて、東大は落ちたけれども、国立大学には合格して、地方公務員として管理職にもなった。息子も、それなりに難関の大学に入ることができた。
ここまでは、鷲田さんが言うような道の枠内になんとか踏みとどまってきているのかもしれない。
だが、しかし。
こうも言っている。
「集中力を持続して仕事をする能力は、若年時、受験勉強以外ではほとんど身につけることは難しい。もちろん、例外はある。…(※わたしが長年勤めた大学の学生の大部分、九九%は、受験勉強を本格的にしたことがなかった。ために勉強〈work〉を日常的にする習慣をもたず、集中力を持続する能力に欠けていた。本格的な仕事についたとき、真っ先に出会う困難である。)」(32ページ)
問題は小かっこのなかである。
鷲田先生の教えた学生は、どんな学生たちで、どんな進路を歩んだのだろう。かれらは、ほとんどお先真っ暗だったのだろうか?学生たちのその後については何も書いていないが、素直に読めば、そういうように読めてしまう。
グローバルスタンダードに対処して生き抜くことができる最低限度の「日本力」を身につけることのできる「大学」というのも、それなりのレベルの大学である必要があって、鷲田先生の大学は、たぶんそのレベルに達していない、と読める。
しかし、そんなことはないのではないか?かれらも、それなりに、ふつうのあるいは立派な人生を歩んでいるのではないか?受験戦争の落ちこぼれであったとしても、だからお先真っ暗だ、というのはどうなのだろうか?
鷲田先生は、いったい大学で何を教えていたのだろうか?基礎的学力にかける学生たち相手だったので、なにも教えることができなかったというのだろうか?そういうふうにも読めてしまう。哲学者とは、必ずしも受験戦争の勝者ではない学生たちに対しても、然るべき生きる道を教えるべき存在ではないのか?
少なくとも、自らが指導した学生たちに対して、ほとんど愛情は感じられない。
たとえば、内田樹先生は、教鞭をとった神戸女学院大学について、名門のお嬢様学校であるからであろうが、キャンパスもとても雰囲気の良い場所であるようでもあるが、もっと愛情をもっていることは、著書から明確に伝わってくる。受験の偏差値のことはよく知らないが。
閑話休題。
もちろん、この本の中に、具体的に役に立つ話はたくさん書いてある。
「ここでいいたいのは、『遠い』願望と現在をつなぐのは、『気持ち』の上でいえば、『勉強』以外にないということだ。」(51ページ)
「職場も学校も、単に労働=勉強能力を高めてくれるだけじゃない。なにより(好き嫌いに関係なく)労働=勉強『習慣』を身につけさせてくれる。この『習慣』は職場や学校以外で、家庭で身につけることはとても難しい。」(53ページ)
プラグマティックなハウツー本ではあるのだろう。
しかし、鷲田小彌太先生の「哲学」は、私が思う「哲学」とは、ずいぶん違うものである、ということも間違いがなさそうだ。
著者は、大阪大学で哲学を学び、大学院に進み、故郷の北海道の札幌大学教授を長く務めた哲学者である。処女作は、ヘーゲルに関する著作らしい。
哲学者として、名前は記憶にあったので(大坂大学総長を務めた「臨床哲学」の鷲田清一も哲学者であるが、別の人物として記憶はしていた。この二人、定かではないが、近い親戚関係はないようだ。)、図書館の新刊コーナーで目にして手に取ってみた。
プロローグ、「父はクールな観察者たれ」という小見出しで、「父親は簡単に息子のアドバイザーになれるなどと思い違いをしてはならない。むしろ息子の一挙手一投足を観察する役に徹する必要がある。あくまで『傍観者』(bystander)の態度を装ってだ。」(6ページ)
これは、確かにその通りだろうと思う。
同じくプロローグで「十三歳には、高校入試、大学入試、就職試験という、避けることのできない、勝負がはっきり決まる三大コンペ(競争)が否も応もなく待ちかまえている。この勝負に失敗すると、とてつもない墜落が、先の暗い未来が待っている、と思えてしまうのだ。」(12ページ)とある。
さて、これはどうだろう。
大学入試などの競争に失敗すると先の暗い未来、墜落が待っている、というのだ。
競争に失敗した人には、普通の明るい未来はない、とかれは言う。世の父親に対して、その息子が、人生の競争に勝ち抜くためのノウハウを授けよう、というのが、どうもこの本の趣旨らしい。
もっともここに「と思えてしまうのだ」という留保がある。競争社会の全たき肯定が趣旨なのではなく、いわゆる「競争の落ちこぼれ」をいかにすくい取っていくか、とか、さらに言えば、現今の競争社会を抜けたその先の在りうべき理想の社会を描くという文脈が展開されることも期待しうるところだ。
ところがそんなことはない。
「この十三歳から三十五歳まで、第一に必要なのは『勉強』(work)である。『激勉』(ハード・ワーク)なのだ。/総じて生物には、好むと好まざるとにかかわらず、『競争』のないところに『成長』や『進化』はない。/人間も放っておいたら、イージーゴーイングになる。努力をしない。極端にいえば、パラサイト、寄生虫の生き方をすることだ。ニート(就職・教育・訓練の拒否)であり、総じて勉強・仕事・家事という一人前の人間なら避けて通ることのできないワークから逃亡することである。」(31ページ)小見出しは「『競争』のないところに『成長』はない」である。
さらにこうも言う。
「グローバルスタンダードの中心は、アメリカンスタンダードである。貨幣(政治・経済)でも、言語(文化・芸能・学問)でも、メジャースポーツ(野球・バスケ)でも、ドル・米語・大リーグというアメリカンスタンダードが世界標準になっている。」(60ページ)
ふむ。「成長」や、「進化」か。「グローバルスタンダード」か。
こういうのは、一般的には、世の中の常識というものなのだろうな。これは全く正しい、のかもしれない。私も、私の実生活の中で、そういう考えを否定しきることはできないと思う。
(グローバルスタンダードに追いつくために必要な)「日本力の最低限度は、大学を出ないと身につかない。」(62ページ)最低限大学を出なければ、現在の世の中をまともに渡っていくことはできないというのだ。これも、確かにその通りなのかもしれない。冷徹な現実として。
だが、しかし、「哲学」というのは、こういうまったく現実的な考え方とはまた別の、「もうひとつの道」をこそ考えること、なのではないか。
確かに、私も、高校まで成績は良くて、東大は落ちたけれども、国立大学には合格して、地方公務員として管理職にもなった。息子も、それなりに難関の大学に入ることができた。
ここまでは、鷲田さんが言うような道の枠内になんとか踏みとどまってきているのかもしれない。
だが、しかし。
こうも言っている。
「集中力を持続して仕事をする能力は、若年時、受験勉強以外ではほとんど身につけることは難しい。もちろん、例外はある。…(※わたしが長年勤めた大学の学生の大部分、九九%は、受験勉強を本格的にしたことがなかった。ために勉強〈work〉を日常的にする習慣をもたず、集中力を持続する能力に欠けていた。本格的な仕事についたとき、真っ先に出会う困難である。)」(32ページ)
問題は小かっこのなかである。
鷲田先生の教えた学生は、どんな学生たちで、どんな進路を歩んだのだろう。かれらは、ほとんどお先真っ暗だったのだろうか?学生たちのその後については何も書いていないが、素直に読めば、そういうように読めてしまう。
グローバルスタンダードに対処して生き抜くことができる最低限度の「日本力」を身につけることのできる「大学」というのも、それなりのレベルの大学である必要があって、鷲田先生の大学は、たぶんそのレベルに達していない、と読める。
しかし、そんなことはないのではないか?かれらも、それなりに、ふつうのあるいは立派な人生を歩んでいるのではないか?受験戦争の落ちこぼれであったとしても、だからお先真っ暗だ、というのはどうなのだろうか?
鷲田先生は、いったい大学で何を教えていたのだろうか?基礎的学力にかける学生たち相手だったので、なにも教えることができなかったというのだろうか?そういうふうにも読めてしまう。哲学者とは、必ずしも受験戦争の勝者ではない学生たちに対しても、然るべき生きる道を教えるべき存在ではないのか?
少なくとも、自らが指導した学生たちに対して、ほとんど愛情は感じられない。
たとえば、内田樹先生は、教鞭をとった神戸女学院大学について、名門のお嬢様学校であるからであろうが、キャンパスもとても雰囲気の良い場所であるようでもあるが、もっと愛情をもっていることは、著書から明確に伝わってくる。受験の偏差値のことはよく知らないが。
閑話休題。
もちろん、この本の中に、具体的に役に立つ話はたくさん書いてある。
「ここでいいたいのは、『遠い』願望と現在をつなぐのは、『気持ち』の上でいえば、『勉強』以外にないということだ。」(51ページ)
「職場も学校も、単に労働=勉強能力を高めてくれるだけじゃない。なにより(好き嫌いに関係なく)労働=勉強『習慣』を身につけさせてくれる。この『習慣』は職場や学校以外で、家庭で身につけることはとても難しい。」(53ページ)
プラグマティックなハウツー本ではあるのだろう。
しかし、鷲田小彌太先生の「哲学」は、私が思う「哲学」とは、ずいぶん違うものである、ということも間違いがなさそうだ。
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