石川さゆりと椎名林檎のコラボで、2曲作られたようだ。
どうも聴き心地が悪い。危うい。
椎名林檎の日本趣味が、石川さゆりの演歌と合体する。
もともとは舶来由来の椎名林檎作の楽曲(ポップであり、ロックであり、ジャズであるような)の日本趣味は、一種のエキゾチズムとして機能し、不思議な心地よさと趣味の良さを感じさせるものだが、それを演歌歌手の石川さゆりが歌う。
パロディは、つねにほんものに回収される危険を有する。
その危険さ、細い塀の上を歩いて、危うくどちらにも落ちない時にその見事さに感嘆できる。しかし、気を抜くと簡単に塀の中に落ち込んでしまう。ミイラ取りが簡単にミイラになってしまう。
椎名の歌詞の擬古語、花魁の言葉めいた古文体は、正しいのだろうか?それが正しいかどうかなどは関係ない、ことかもしれない。しかし、その言葉遣いは、そのものとして正しいものでなくてはならない。私自身は、それが正しいか正しくないか判断できない。知識がない。
茶道の心得がなく、テレビに映し出されていたふたりの茶の飲み方が正しいのかどうか判断できないのと同様に。恐らく、石川さゆりも椎名林檎も一応の茶道の心得はあるはずだ。あるいは、収録の直前に、指導はされているはずだ。
あの歌詞は、実際に花魁が使うべき言葉になっているのか?その通りではなくても、花魁の言葉を踏まえた言葉になっているのか?
聴いている限り、間違ってはいないのだろうとは思わされる。しかし、ほんとうに間違っていないかどうか。判断できない。それも、居心地が悪い理由のひとつだ。
石川さゆりは、私より2歳年下で、デビュー当時から知っているが、当時から演歌歌手だった。まだ十代で、アイドルのような演歌歌手だった。私と同世代であるから、どっぷりとフルに古来の日本文化のなかで育ったわけではない。相当に西洋化された日常生活の中で育っている。
だから、石川さゆりの演歌というのも、単に素直に心の底からにじみ出た古来の日本の感性だというわけではない。あとからあえて演じられた世界であることに違いはない。
椎名林檎の楽曲を石川さゆりが歌うというのは、そもそもがシンプルな話ではない。二重三重、あるいは四重五重のひねりのうえに成り立っていることなのだ。
これは、相当におもしろい試みであり、成功したパフォーマンスとなる可能性はある。
しかし、失敗すれば、まがいものの日本趣味、単に聴き心地の悪い失敗作、ともなり得る。
着物を着たふたりが京都の街を歩き、島原の太夫の芸を観る番組、これは相当に関心を引き付けられ、観込んでしまった。面白い番組だった。
椎名が石川のために作った二曲は、そう簡単に売れる、という代物ではない、ように思った。
ところで、番組で、京都島原の太夫は、江戸吉原の花魁と違って、芸のみで身を立てると言っていた。ほう、そういうことだったのか。知らないことだった。
茶道ということを習ってみたい、とも思った。あい変わらす、知らないことは多い。
(演歌が、日本の心性に由来すると、単純に言ってしまっていいものかどうかはここでは置いておく。)
(芸のみで身を立てるとは、つまり、こういうことだというのは、分からないひとも多いのかもしれないが、あえて言わないで置く。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます