これは、実は相当に柄の大きい話になるので、ほんのメモ程度に、ということでしかないけれども、たまたま休日、土曜日の朝起きて、ソチ・オリンピックの開会式の様子がテレビから放映されて、妻と朝食(ブランチだな)を摂りながら眺めた。
多くの参加国、地域が入場する様子、イスラエルの後にイランが行進するとか、パレスチナは参加していないんだろうなとか、相応に感慨深いものがあった。
入場の順番は、アルファベットだろうが、どうも、英語とかフランス語のア・ベ・セ…の順番ではない。恐らく、ロシア語のキリル文字だっけ?その順番なのかなとか考えつつ、JAPANなのかNIPPONなのかわからないが、日本がなかなか出てこない。ひょっとすると、途中のニュースの間に入場は済んでいて、あとで、録画で見せようという寸法だろうか、でも、それはないだろう、などと妻と語っていたが、なんと、最後の開催国ロシア連邦の直前に出てきた。ロシア語表記だとこの順番ということなのだろうか。
日本人選手の顔が映し出されると、また、ああ、この選手、あの選手と感動してしまう。もちろん、さまざまな国が行進し、その選手が映し出される。そのひとつひとつが、深い文脈を持ってそこを歩いている。それが、この行進で一望できる。人類にとって、オリンピックというこの式典は、有意義なものであるに違いない。
で、行進が終わって、ロシアの選手団がすべて所定の位置に着席し、セレモニーが始まる。
舞台装置、音楽、そしてバレエ、演技、すべてが大掛かりで素晴らしい。構成され、演出され、演じられ、すべての歯車が動くべくして動いている。
ロシアの歴史が、再現されている。
ピョートル大帝の鍛錬された軍人たち(近代戦争の機能的に過ぎるものでなく、あくまで、19世紀風の、貴族風の軍服である。)が美しい行進を終えると、美しいドレスの女たちが現れ、軍人たちの整列の中にするすると入って行き、そのドレスで男たちを隠したかと思った瞬間、舞台は、舞踏会の会場となる。
トルストイの戦争と平和の一場面をモチーフとしたと、テレビのアナウンスは語る。舞踏は、もちろん、ロシアのバレエである。
トルストイは、実はひとつも読んでいない。ドストエフスキーはほとんど読んでいるが、トルストイは、なぜか食指が動かない。そういう私の偏った嗜好はさておき、こういう国を代表するような輝かしい場面には、ドストエフスキーは、やはり合わない。「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」のトルストイこそふさわしい。
専制君主の帝国から、ロシア革命へと向かう19世紀のロシア人民の歴史のなかで、トルストイの文学があり、これは、革命後とはなるが、あの素晴らしいロシア・バレエがあり、それが、いま、このオリンピックの会場で、合体して表現されている。
このロシアの歴史。
美しい舞踏会。美しいプリマドンナ。すーっと美しく宙に上がっていく左足。舞踏も美しく、肉体も美しい。
そして群舞。一糸乱れぬ群舞。
深く感動してしまう。
椅子に座って動くことも叶わず、凝視する。
このあと、ロシア革命。赤いライトの中、モダンな装いの踊り手たち。蒸気機関車や歯車の舞台装置。アヴァンギャルドなデザイン、音楽。
革命は、専制君主や富を所有するものたちの圧政からの人間の解放であるが、特に社会主義革命は進歩主義であり、経済の成長を前提とする成長主義である。今となると、歯車に代表される(古くはチャップリンのライムライトのように)機械の、テクノロジーの非人間性に押しつぶされている人間というふうに見える。われわれはそこからもういちど解放されなければならない。成長主義のくびきから逃れなければならない。
このセレモニーにおける革命時の演出は、必ずしも希望に満ちているわけではない。むしろ、アヴァンギャルドなデザインは、そこで押しつぶされた人間をこそ表現し、社会主義的な圧政をこそ表現している。そしてさらに、人間の寸法を超えたような現在の経済成長や技術革新をこそ表現している。
成長主義を脱却することの必要性は、もう何十年も言われるづけていることだが、成長主義はいまだ根強い。いまこそ、もうひとつの、また別の革命が必要な時代なのかもしれない。
どちらにしろ、ロシア革命、ソヴィエト連邦の成立というのは、壮大な人類の歴史上の実験であったことは間違いない。(一方で、アメリカ合衆国の創設ということもまた、壮大な実験であった。20世紀は、このふたつの巨大な実験国家の時代であった、と後世の歴史家は語るはずだ。)
この開会式、ロシアという国の歴史、その世界史上における巨大な足跡が圧倒的に伝わってきて、深く感動しながらみさせてもらった。
演技の部分が終わって、挨拶の時間帯に移ろうというとき,衛星放送の朝ドラ「あまちゃん」にチャンネルを替えた。今日放映分の後半からとなった。(お昼には、総合テレビで見られるのだが。)この番組のテーマは食べることは、命をいただくことであるという深い命題である。日本の歴史(まあ、このドラマにおいては近代史)を踏まえ、震災後のいま、にふさわしいドラマを作ろうという意志が見えて、好ましく見ている。とくに、被災した漁港都市、チッタ・スローである気仙沼にとっては有難いドラマである。
戦争に行って、病気になって帰ってきた主人公の幼馴染が、ひとを殺したトラウマから食べ物を摂ることができなくなる。食べることもまた、命を奪うこと。これはまさしくその通りだ。
(これは、われわれが、気仙沼演劇塾うを座の最初のオリジナルミュージカル作品「海のおくりもの」(壤晴彦作・演出)でとりあげたテーマと全く同一である。)
幼馴染は、何を食べても吐いてしまう。
で、主人公が、試行錯誤して、与えたもの、幼馴染が吐かずに摂取できたものははなんだったか。
牛乳である。母親が、その子のために産出する乳は、食べ物でありながら、産出主体である母親を殺さない。なるほどね。
もっとも、乳のもとはといえば、母親が摂取した他の生物の命であることに間違いはないのだが、母親を通過することで浄化されるというわけだろう。このドラマの筋としては、筋は通っている。
というわけで、NHKの朝の連続ドラマや、日曜夜の大河ドラマは、日本の時代を映す時代精神のようなものだと、私は考えている。もちろん、ひとつひとつのドラマとして名作か、そうでもないかという違いはあるはずだが、出来不出来みたいなものもひっくるめてそうだ。
もちろん、あらゆるテレビドラマや映画や、そして、文学作品もそうなのだが、そのなかでも、大河ドラマと朝の連ドラはその役割が明確なのだと思う。
ということで、今朝は、茶の間のテレビでつらつら眺めた、ロシアと日本の時代精神の表現としての芸術作品という話題。
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