内田樹である。内田樹師である。わが師匠である。いちども面識はないが、その著書を通して、師と仰ぐべきひとと思い定めている。
「はじめに」にこうある。
「今回は「ローカリズム宣言」というタイトルで、地方移住、定常経済などにかかわる文章をまとめて本を一つ作りました。」(3ページ)
「実際に地方移住するかどうかはさておき、「地方移住という選択肢を検討する気になっている人たち」は僕が考えているよりもはるかに多いらしい。」(4ページ)
実際、この気仙沼にも、多くの若者が移り住み、それぞれのキャラクターでもって活躍していたりする。
多いことは意外ではあっても、納得のいくものであるという。
「それは2011年の東日本大震災で露呈した都市文明の脆さと、とりわけ原発のメルトダウンによる環境破壊に対するごく自然な反応のように思えたからです。そういう動きがなければむしろおかしい。/資本主義の終焉が近づき、今までのような都市生活はいずれ継続が困難になる、そういうふうに思う人が少しづつではありますけれど、しだいに増えてきました。もちろん、まだ圧倒的に少数派です。」(4ぺーじ)
「資本主義の終焉」が近づいている。
これはどういうことか。
それは、まさしくこの本を読んでいただければよい。
いつまでも経済成長、経済成長と唱え、金を金で買うようなマネーゲームの世界、競争に駆り立てられるような世界、そういう世界に私たちは生きて生きたいのだろうか?
「経済活動とは、ぎりぎり切り詰めて言えば、人間が生きて行くために必要な商品やサービスを交換することです。だから、経済には人間の身体というリミッターがかかる。」(20ページ)
[人間は身体という限界を超えた消費活動をすることができない。これが経済成長の基本原理です。当たり前過ぎて誰も口にしませんが、これが基本です。そして、経済をめぐる無数の倒錯はこの基本を忘れたせいで起きています。」(21ページ)
このあたり、まったくそのとおりである。私が書いたとしても、まったく同じ趣旨のことを書くはずである。これほどぴたりとは言いあてられないとしても。ここでいう「経済の基本原理」からして、もはやこれ以上の成長の継続はあり得ないのだ。しかし、成長がないからと言って、日本が暗闇だ、などということはない。転落するほかない、などということはない。
「日本はほんとうは豊かな国であること、この資源を国民全員がフェアにわかち合い、使い延ばしてゆけば、まだまだ百年二百年は気分よく暮らせるという事実を彼らはひた隠しにします。経済成長が止まったら、すぐにでも国が滅びるというような悪辣な煽りを続けている。だから原発は再稼働する、社会福祉は切り捨てる、雇用条件は引き下げる、リニア新幹線は通す、カジノであぶく銭を稼ぐ……といった姑息な「金儲け」をしなければ。国家の存亡にかかわるというようなことを言う。」(43ページ)
「彼ら」というのはエコノミスト、政治家、大企業の経営者、…戦争中の大本営発表のように、うすうすでも分かっているのに、こわくて自分からは言い出せない。経済成長の呪縛にとらわれたサークルから抜け出すことができない。
左翼、だとか、リベラルだとかレッテル張りされて仲間外れにされることを恐れる。
最近では、国家、行政、自治体、大学も、株式会社の比喩で語られることが多い。その中の人間が、株式会社的な行動様式こそが正しいと言いたてる。いわく、民間のビジネス感覚。これは、実は相当に倒錯的なことだ。
引用されているのは、内田氏の親友・平川克美さんの名著(といっていいと思う)「小商いのすすめ」であったり、山里の哲学者・内山節であったり、同じく私が師と仰ぐ著作家ばかりである。
ということで、実は、この本を読んで、私にとって新発見、というようなことは書かれていない、といっていい。
まあ、内田氏自身が、ちょっと本を作りすぎというような趣旨もおっしゃっている。「内田樹による内田樹」などという自著のガイドブックまで書かざるを得ない状況である。
とは言いながら、長く地方自治に関わり、関心をもってきた人間として、自治体というかたち、市町村の役場、そこに働く公務員について、この本でダイレクトに語っているわけではないが、中央政府よりもむしろ、地方政府、地方自治体を重視して行く方向性を増強するものであることは間違いない。
第10章脱「地方創生」は、サブタイトルが「地方創生の狙いは冷酷なコストカット」であり、ページを開くと見出しに、その正体は「里山の切り捨て」とある。
「道路や鉄道を通し、電気や電話を通し、医療機関や学校や役所を設置していれば、その維持にコストがかかる。とても地域からの税収ではまかなえない。だから市場原理を適用すれば、「住民が少ない地域に対しては行政サービスはしない」という結論になることは目に見えています。」(190ページ)
と、まあそんなところ。
内田樹については、ぜひ、現在の若者に読んでほしいと思うが、そのすべてを読み通す必要はあまりないかもしれない。それぞれの関心に沿って、最適の一冊を見つけ、それに加えて数冊を読めばその思想はかなり把握できるはずだ。
しかし、まあ、出版社が放って置かないのだろうな。一定の部数は見込めるのだろうし。
こないだ、同時に能楽師安田登との対談「変調「日本の古典」講義」を買ってあって、読むのを楽しみにしている。「街場」シリーズの「天皇論」も読みたいと思っているのだが、大体書いていることは分かりそうな気がするので、さて、どうしようか、と考えている。
私としては、最近、まさしく日本国民のど真ん中に存在しつづける「天皇」という存在に敬服している、にわか天皇主義者であって、制度としてどうこうということを超えて、一個の個人でありながら象徴としての任務もはたしつづけるその人間力というか、昭和~平成の歴史の中では果たした役割というか、圧倒的である、と思っている。日本国憲法において、唯一基本的人権を保障されていないのが、天皇、皇族であるのにもかかわらず。
とまあ、そういうことで、内田樹師である。
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