物語や劇は『結界』の内側に在ると言っていい。書かれた言葉は外からも見えるから参加した気分にはなれるだろうが、この結界を破らない限りその異世界の『今』には居られない。その物語や劇と出会ったことが天の配剤、つまり『縁』であると思い決め、感謝を持って近づかない限りこの結界は破れない。
— 壤 晴彦 (@HaruhikoJo) 2016年8月9日 - 01:55
然し、いや、だからこそ独りよがりは禁物だ。まず破れない、破ってはいけない『結界』もある。勝手に「縁がある」と押しかけ絡みつく無作法さ「分かった」つもりの不感症。それが「不幸」であれ、また「達成」であれ、他者の窺い知れぬ、決して共有など出来ぬその人だけの『時』はある種の禁忌なのだ。
— 壤 晴彦 (@HaruhikoJo) 2016年8月9日 - 02:25
人のひとり一人も『結界』であると思う。義理や使命や利害の関係では決して結界の壁は破れない。性別、年齢、階層、人種、あえて言えば信仰をも超える、謂わば「縁のぬくもり」を感じ、縁を繫いでくれた者への感謝を持ち得た時、初めて一つの意識世界で向き合い、そこにしかない『今』を共有出るのだ。
— 壤 晴彦 (@HaruhikoJo) 2016年8月9日 - 02:05
「そうなる」と思って演じるな。確かにそうなるのよ、そう書いてあるんだから。だがその人物は自分のこれから先を知らない筈だ。が役者は知ってる。そして知ってる事はお客にバレる。観客は役者の呼吸や筋肉の状態に同調する。だから言葉と身体のギャップ、つまり嘘の演技はいともたやすく見抜かれる。
— 壤 晴彦 (@HaruhikoJo) 2016年8月9日 - 05:44
「本にカバーをかけるな」去年まで働いていた団体の経理・総務課長が言っていた。今、電車で本を読んでいる人が少なくなったからこそ、本を読んでいると目立つ→いい宣伝になる、とのこと。早速実践。真向かいの方、表紙をガン見。タイトルを見ている pic.twitter.com/MjHb24ELD3
— 鎌倉幸子@脱稿して脱走したい (@1192_sachiko) 2016年8月9日 - 13:47
ズバリ言う。特にこの時期に多い「戦渦体験の手記」などへの向き合い方。決して共有出来ない他者の実体験を「我が事」のような感情表現で語るいやらしさ、不謹慎さが僕は堪らない。語り伝えるなとは言わぬ。実は窺い知れぬ何かへの謙虚な距離感と節度、敢えて言えばリスペクトを忘れてほしくないのだ。
— 壤 晴彦 (@HaruhikoJo) 2016年8月9日 - 02:42
私は、その成熟した国民の一員たりうるだろうか? twitter.com/levinassien/st…
— 千田基嗣 (@motochida) 2016年8月9日 - 20:07
元気がない goo.gl/Ucst7T
— 千田基嗣 (@motochida) 2016年8月9日 - 22:07
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