ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

加藤典洋・高橋源一郎「吉本隆明がぼくたちに遺したもの」岩波書店

2013-08-06 23:46:48 | エッセイ
 ぼくが読む本の中で、岩波書店率は結構高いのだが、考えてみると結構久しぶりだった。
 加藤典洋氏は、文芸評論家だが、実は、書籍の形でまとめて読んだことはない。
 高橋源一郎氏は、小説家。デビュー作「さようならギャングたち」以降、かなり読んでいる。すべてではないだろうが、小説については、結構なパーセンテージになると思う。いま、日本で最も重要な小説家は、高橋源一郎だと思う。「恋する原発」、「さよならクリストファー・ロビン」、これはすでに文庫となって読んだのだが「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」、このあたり、何とも言えない。手放し絶賛。素晴らしい。次は「銀河鉄道の彼方に」という分厚い小説がここにある。楽しみ。それはさておき。
 「吉本隆明がぼくたちに遺したもの」、「そこには、とても大切ななにかが含まれている。」(高橋 まえがき)
 ぼくは、吉本は、「擬制の終焉」を読まずに、「共同幻想論」と「心的現象論序説」と「言語にとって美とは何か」を読んだ。どこか遅れてきた、というような意識は持ちつづけてきたし、本当の吉本読みではない、と思い続けてきた。しかし、ふり返ってみれば、「マス・イメージ論」はじめ、多数の著作を読み続けている。もちろん、詩も。
 さて、加藤典洋は、吉本隆明について次のように語る。
 「さて、三・一一の原発事故は、私に、いま自分の経験していることが、世界史的に未曾有の要素をもっているとしたら、自分がそれと向き合うには、とことんゼロの地点にまで遡らなければならないだろうということを考えさせました。…そういうなかで、何人か、いまの日本の場所から、直接、世界について考えている思想家のいることも見えてきます。…こうした思想的な企て、思想態度の源流に、日本語で書く思想家として、吉本隆明がいるということだったのです。」(加藤 76ページ)
 たとえば、高橋源一郎は次のように語る。
 「『吉本隆明が語る親鸞』のことばの中で、…親鸞が言っていることの中で、一つの問題で二つ解が出されるという例をあげていて、すごくおもしろい。たばこのことですが、たばこは医学的、生理的に見ると明らかに害があって、吸わないほうがいいに決まっているというのが一つの解である。もう一つの解は、健康に悪いけれど吸いたいという気分もどうしようもなく存在している。これはどちらが正しいということでなはない。ただ二つの解があるだけだ、と。…どちらが正しいという問題ではないというのが親鸞の解だ、と吉本さんは言うんですが、これは吉本さん自身の解だと思うんです。」(高橋 159~160ページ)
 吉本隆明は、日本語で書く日本の思想家であること。マルクスと並んで、親鸞を深く読み込み影響を受けていること。親鸞は、例の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という「悪人正機」で名高い鎌倉新仏教浄土真宗の開祖である。
 最近、吉本隆明といえば、福島の原発事故について、やはり独自の主張を行った。「科学技術は後戻りできない」と、反・反原発の論を語った。「自然史的な過程は、逆に戻すことはできない」と。
 加藤典洋によれば、これは次のようなことである。
吉本がマルクスを引き合いに出していう「自然史的な過程とは何か。…人間はこれまで自然からエネルギーを引き出すことをさまざま行ってきた。そういう科学技術上の進展は人間の知的な『自由の探求』の成果であって一度世に現れたら二度と消えない、というような理解、考え方ということになります。ですから、核技術というものがいったん発明されて、これが問題を起こしたとしても、それ以前には戻れない、技術をさらに進歩させてこれを克服していくしかない…これを倫理的に受け止め、もと来た道をとって返すというふうに科学技術上の問題は解決できないんだぞというのが次に出てくる原則になります。」(加藤172ページ)
 そのように吉本の考えをまとめたうえで、加藤は自分の考えを述べる。
 「原発は、これよりもっと安全で安価なエネルギーが発明されたら(軍事的な問題は別として)…衰退していくだろう、…、同じように…いったん事故を起こした場合のリスクが大きすぎて商売にならないと判断されたら、投資家が手を引いて衰退していくだろう、というのも、自然史的な過程なんじゃないだろうか、とぼくは思う。…というわけで、自然史的な過程として原発が消えていくこともあるんだと考える点が、吉本さんと違うところです。」(加藤 173ページ)
 吉本隆明の原発への態度については、ぼくなりに考えて、科学技術の進歩について、根本は誤っていないのだが、少しだけ勘定に入れるべきポイントを見逃した、のではなかろうかと。恐らく、そういうことで大筋は間違っていないということになるのだと思う。
 ところで、いま、吉本隆明といえば、糸井重里のことを無視するわけにはいかない。
 「これは誰も言っていませんが、この『吉本隆明が語る親鸞』では吉本さんが親鸞で、糸井さんが唯円です。…ある時期から糸井さんは吉本さんのサポートをずっとされていて、たくさんの本を出し、かといって当人が出てくるわけではなく、まさに唯円のように、吉本さんのことばを様々なかたちで世の中に届けるということをしています。」(高橋 40ページ)
 現在の日本を語るうえで、吉本+糸井のセットというのが非常に重要な意味をもつことは間違いのないことだ。
 さて、「吉本隆明が僕たちに遺したもの」とは結局何か、ということについては、直接この本を読んでいただくことにして、この本全般にキリスト教が出てくること、資本主義とキリスト教との関係が語られることは述べて置く。実は、この次に続けて読んだ「やっぱりふしぎなキリスト教」という本の内容とも深くシンクロしている。著者は、大澤真幸、橋詰大三郎、そして、こちらにも高橋源一郎がパネラーとして登場している。
 吉本の最初期の著作に「マチウ書試論」つまり新約聖書のマタイ伝についての論考があることは言うまでもないこと。

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