ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

気仙沼の復興と事業にかかる抽象的な話

2012-04-23 23:02:02 | エッセイ


 気仙沼の復興ということがあるとすれば、それは、ここに住んでいるひとのうち、何人が、この場所での仕事に、改めて天命を見いだすかということにつきるのだと思う。
 気仙沼に住んでいるひとのうちの何人かが、自分のなすべきことを見つけ、実行する。自らの使命を見いだし、それを成し遂げる。業を起こして、然るべきものを製作し、供給する。然るべきサービスを提供する。そこで売り上げを上げる。ひとを雇用する。
 事業が成功し、継続していく。
 天命。それは、確かに天命なのだが、別段、神がかったものとか、途方もないものとか、想像もつかない素晴らしいものとかではない。ごく普通にそこらにあるもの。気仙沼には、昔から、当然にあったもの。それを改めて見いだし、事業とする。
 気仙沼という、漁船漁業の発展とともに形成されてきた街において、そういう事業の大半は、漁業、水産業に関わるものであることは間違いがない。もちろん、直接には、海に関わらない事業もある。
 ツイッターやフェイスブック上のあのひと、彼女、彼、そういう事業を担っている人名をすぐにも、いくつも挙げることができる。
 彼らは、抽象的に金儲けしようとするわけではないのだ、と思う。復興に力を発揮したいという志はあるとしても、抽象的に地域経済を発展させることができるというわけではないはずだ。
 彼らは、具体的なモノを持っている。気仙沼にいて、気仙沼自体に、あるいは日本に、場合によっては世界に供給したい「これ」を持っている。それらは、確かに、ああ、いいな、と思わせるモノ。
 そういうモノを持ったひとびとが何人いるか、に気仙沼の復興はかかっている。で、恐らく、気仙沼にそういうひとびとはたくさんいるのだ、と思う。
 以上、具体的な人名やモノの名前を挙げない抽象的な話。

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