1971年生まれ、東大教養学部から、通商産業省、エディンバラ大学で博士号、京大の準教授を経て、いまは、評論家らしい。専門は、経済ナショナリズムだという。
学問の分野として、経済ナショナリズムというのは聞いたことがない。これは、彼の主張だ、ということになるのだろうな。
冒頭、「今や『保守』と称する政治勢力のほうが、変革を競い、新しさを誇るという奇妙な時代である。」(10ページ)という文章で、この本は始まる。
いわゆる保守が、社会を革新しようとし、いわゆる革新が社会を保守しようとする。この奇妙なねじれ。これは、ここずっと、ぼく自身の問題意識そのものであった。
「資本主義とは、ジョセフ・A・シュンペーターが言ったように、現状を常に革新していく『想像的破壊』の過程である。資本主義社会とは、革新が常態化した社会なのである。だとすると、資本主義社会における国民の保守感覚は、革新という日常を保守したいというものになってしまう」(11ページ)
それに対して、いわゆる革新勢力は、憲法を守り、基本的人権を守り、日常の生活を守るという、保守するために政治体制を変革しようとするものということであった。
ソヴィエト連邦の崩壊前、日本で社会党がまだ相応の勢力を持った時代には、そういう進歩改革しようとする保守と、保守しようとする革新という構図はあからさまであったが、当時、この奇妙なねじれをあからさまに語るものはいなかったように思う。もっとも、社会主義も、世の中の進歩、科学の進展、経済的成長によってさまざまな社会問題を解決しようとする進歩主義であったからということもあって、「暮らしを守る」とスローガンを掲げることはあっても、「保守」という言葉を使うことはなかった。
まあ、いま、すでに崩壊してしまった日本の「革新」勢力のことを語ってもあまり意味がないが。
この本における主張は、保守主義と新自由主義は違うということ、しかし、保守主義は資本主義を否定するものではなく、つまり、資本主義と新自由主義は違うということが眼目となるのだと思う。
「新自由主義は、資本主義をも不安定化し、そして破壊してしまった。」(17ページ)「それは雇用を不安定化し…地域共同体の紐帯を弱らせ…各国固有の文化や伝統的な生活様式を破壊する。」(16ページ)
地域共同体とか、各国固有の文化や伝統的な生活様式こそが、資本主義の社会を存続させうる基盤であるのに、市場万能主義は、その基盤を崩し去ってしまったというような。
新自由主義の問題とは、「営利精神の過剰」である。
「『営利(business)』が過剰になって『産業(industry)』を支配するようになっている」(120ページ)
「『産業』とは、社会が必要とする実質的なニーズにこたえるための実体経済における生産や流通などの経済活動である。これに対し『営利』とは、社会的なニーズとは無関係な…金銭欲を満たすための行為である。」(120ページ)
われわれの生活を守り維持していくためには、経済活動が必要であるということは言うまでもないことで、現在、その経済活動とは、社会主義的な計画経済ではあり得ない。これは、現在の常識であると言っていい。現状の資本主義経済の社会体制が、歴史的に形成されてきたものであり、まあ、現状においてはベストなものであると言っていい。しかしそこにはさまざまな抑制が必要である。市場万能の新自由主義に委ねて置くことはできない。
その抑制とは、国民国家であったり、共同体があったり、また、政府が設けたりというような社会的な様々な障壁であったりする。
このあたりが、このところ、ものの本を読む限りで、世の識者に共通する見解、主張なのだ、と言って、おおむね間違いはないだろう。
岩井克人、佐伯啓思、平川克美とか、内田樹や萱野稔人なんかもそうだろうか。内山節とかもおおむねそんなところなんだろうな。
東浩紀や古市憲寿なんかは、やや自由な経済活動のほうに重点がある感じだろうか?まあ、程度問題の感じに過ぎないが。
さて、地元に生活している中小企業の経営者を見ていても、金儲けのために事業をしていますというひとは見たことがない。みな、それぞれ、社会に必要なものを供給するために仕事をしている。もちろん、会社の存続のためには利潤が必要であり、良きマネジメントは必要なことである。しかし、かれらは、良質な魚の煮物をつくり、良き着物を売り、美味しいコーヒーを提供し、研究してうまいラーメンをつくる。身の回りの人々を喜ばせて、結果として売り上げになる。決して、利潤を生み出すために仕事しているとは見えない。
私は利潤追求のために商売をしています、などというひとはいない。みな、社会のために役割を果たしているのだ。
そういう社会を守っていくために良きことをしたい、というのは、ぼく自身の願いでもある。その限りで、ぼくも保守主義者であることに間違いはない。
ところで、新自由主義を支える柱の一つといえる現在の主流派経済学についてであるが、 「主流派経済学は、『供給(売り)が、需要(買い)を決定する』という『セーの法則』を前提としている。このセーの法則は、物々交換経済を前提としてはじめて成立するのである。物々交換経済においては…常に供給と需要が一致して均衡するのである。」(74ページ)
これはまやかしである、とぼくは思う。中野氏と同様に物々交換においては別であろうと考えるが、現在の貨幣経済の世の中においては、まやかしである。
生産者は、つねに生産過剰、造りすぎの恐怖に悩まされる。売れ残りは必ずある、という素朴な事実。この常識と一致しない。
売り手から見れば「売った」、買い手から見れば「買った」、これが一致するというのはごく当たり前のことで、あえて何かを説明したことにはならない。しかし、売れ残りの可能性は常にある。売り手が市場に運び込んだものが、つねにすべて売れるなどということはあり得ない。結果として供給できた量が、需要と一致するのであって、期待として供給したい量が、需要と一致するわけではない。この当たり前の理屈。
逆に言って、ないものは売れないというのも厳然たる事実ではあるが、あるものが必ず売れるというわけではないというのも厳然たる事実である。
かように、いわゆる主流派経済学は、そもそもあやまった仮説から出発している虚構の学問である、とぼくは考えている。
科学は、そもそもすべて仮説から出発するひとつの構築物、一個の虚構であるといえばその通りなのだが、主流派経済学という学問は、その仮説の妥当性が著しく低いというべきなのだろうな。
とまあ、以上、非常に雑駁なメモ、ということで。
あ、ケインズだとか、オーウェンだとか、西部邁とか、参照している人名のなかで、イギリスの文学者で、政治経済の論客でもあったらしい保守主義者コールリッジをこそ参照してこの本は書かれている、ということは言っておくべきことだった。
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