(2013.11.09訪問)
祇王寺のお隣、すこし上り奥まった所、ほんの十数歩先に滝口寺の門があります。小倉山の山懐に寄り添う
ように閑かに、そして粋人の終の住処に見紛う侘び、寂びのきいた葦葺きの本堂が一つ佇んでいます。
祇王寺の華やいだ人の声はなく、そこには変幻自在な自然の流れだけがあるような、静かな祈りの世界とは
また違う世界を感じます。そして平家絡みの悲話哀歌のお話が過去を語っていますが、その名残は本堂に残
る横笛と滝口の木像だけでした。
▼染まりつつある楓。
[ 滝口寺 ]
●山号 小倉山
●寺号 滝口寺 (たきぐちでら)
●宗派 浄土宗
●開創 平安時代末
●開山 良鎮上人(りょうちんしょうにん)
▲京都市右京区嵯峨亀山町10番地4 TEL.075-871-3929
▲拝観料 300円 御朱印300円
▲JR京都駅から嵯峨野線にて「嵯峨嵐山」下車、徒歩約20分
JR京都駅から市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩約10分(京都駅前からバスで約45分)
嵐電四条大宮から「嵐山」終点下車 徒歩約20分
滝口寺縁起 (滝口寺パンフから抄出)
滝口寺は、小倉山麓に良鎮上人によって創建された往生院の子院三宝寺の旧跡。応仁の乱などの戦火で都の
多くの社寺が焼失したが、三宝寺は免れた。しかし、明治維新で廃寺となり隣接する祇王寺の再建に続いて
再建された。寺名滝口寺は、平家物語で語られている滝口入道と横笛の悲恋物語に由来する。
♥平家物語が語る滝口と横笛の悲恋物語♥
少し長いですが参考までに。
滝口入道とは、平重盛に仕え宮中滝口警護に当たる武士斉藤時頼のこと。時頼は平清盛の花見宴で、建礼門
院に仕えていた横笛の舞に一目惚れ、恋しい気持ちを文に記し横笛に届けた。宮中警護の武士の恋文を見た
横笛はこの愛を受け入れ、二人は愛の契りを結んだ。時頼の父の叱責で時頼は自責の念に苛まれ、横笛に知
らせることなく、十九歳で嵯峨往生院で出家。
都の噂で出家を知った横笛は、自分の心を打ち明けようと、あちこちの寺を尋ね歩きます。嵯峨の地へやっ
て来た横笛は小さな庵から念誦の声を聞いた。念誦の声に「この声は、滝口様」、表戸を叩き「滝口入道様、
お姿をお見せくださいませ。都からまいりました」と横笛の従者が声をかけた。横笛は茂みに隠れ滝口の姿
を一目でもと。同時に念誦が止み、一人の僧が「そのような者はこの僧坊にはおりません」と。横笛は「念
誦の声は、間違いなく滝口様。なぜお姿を」と涙したのである。
これは滝口が一人の僧に言わせ、襖の奥から見つつ「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰したのである。
追い返された横笛の落胆はいかほどか。横笛は自分の気持ちを近くの石に「山深み 思い入りぬる柴の戸の
まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で書き記したという。滝口入道は、それからすぐに女人禁制の
高野山静浄院へ移った。それを知った横笛は悲しみのあまり南都法華寺で出家、そこで一生を終えたと伝え
られている。横笛の死を聞いた滝口は、いっそう仏道修行に励んだという。
その後の横笛のお話は、大和法華寺に残り、横笛堂や横笛が手紙の反故紙で自らの姿を作ったという張り子
の横笛像が本堂に安置されています。一度訪ねてみてはいかがでしょう。
▼お寺の荒れ模様を予感させるような門です。
▼本堂への参道。参道脇に建つ横笛歌碑。右の石へ横笛が指先を斬った血で、滝口へ歌を残したそうです。
山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我を導け
▼祇王寺よりいくらか高い位置に在るためか、境内の紅葉は進んでいるようです。
▼とてもお寺のお堂には見えない佇まいの本堂です。
▼相当酷いことになっている、葦葺きの屋根。思わずもらい泣き、ウソです。
▼本堂廊下の隅にこんな看板。参拝の皆様、どうか暖かいご喜捨を!
▼本堂に寄り添うように祀られる横笛と滝口の木像。
▼染まりつつある紅葉は寂の中の光明になるのでしょうか。
▼深紅の濃淡が全山を覆うのはもう真近。
▼本堂前に建てられている平家の供養塔。十三重石塔ですが相輪宝珠がありません。
▼樹名は判りませんが、非常に目立っていました。
▼こんな茸見つけました。
▼赤に対抗する緑の林。
▼新田義貞の首塚。
三条河原で晒された夫義貞の首を妻の勾当内侍は、盗み出しここに埋葬し、庵を結び出家。生涯この地で暮
らしたと伝わるそうです。
▼その勾当内侍の供養塔。
▼御朱印です。
滝口入道と新田義貞、奇しくも平家と源氏の傍流同士が祀られているこのお寺は、歴史の星霜を越えた時の
長さを感じさせてくれました。
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