(2013.11.09訪問)
奥嵯峨からもと来た道を戻ります。嵐山銀座の人人人をかきわけやっとの思いで渡月橋、嵐山もぼつぼつ秋
化粧に染まりつつありますが、錦絢爛にはもう少し。その嵐山の麓にある嵯峨の虚空蔵さんを訪ねます。こ
のお寺は十三参りで有名ですね。もう一つ、清盛がいじめた小督局 (こごうのつぼね) のお話も伝えられてい
ます。
▼薄化粧の嵐山と渡月橋。
その昔渡月橋は嵯峨の虚空蔵さんの参道橋で法輪寺橋と呼ばれたそうで、往時の寺勢を偲ばれますが、今は
観光地嵐山の一部として、十三参りや針供養のお寺として多くの参拝者で賑わうそうです。
[ 法輪寺 ]
●山号 智福山 (ちふくさん)
●寺号 法輪寺 (ほうりんじ) 愛称 嵯峨の虚空蔵さん
●宗派 真言宗
●開創 和銅六年 (713年)
●開基 行基(ぎょうき)
●本尊 虚空蔵菩薩坐像
▲京都市西京区嵐山虚空蔵山町68 TEL.075-861-0069
▲拝観料 境内自由 御朱印300円
▲阪急電車嵐山線「嵐山」終点下車 徒歩約5分
JR京都駅から市バス・京都バス「嵐山」下車徒歩約5分
嵐電四条大宮から「嵐山」終点下車 徒歩約10分
法輪寺縁起 (法輪寺HPから抄出)
元明天皇勅願により行基菩薩に命じて堂塔を建てられました。創建時は「木上山葛井寺( もくじょうざんか
づのいでら )」と呼ばれ、国家安穏、万民の繁栄と五穀豊穣、産業の興隆を祈る勅願所となり、法輪寺の起
源である。弘法大師の高弟道昌僧正は承和年間 (834?847年) 勅願により大堰川を修築、その時架設された
橋がのち法輪寺橋と呼ばれ、亀山上皇がこの橋を見て「くまなき月の渡るに似たり」として渡月橋と命名さ
れたといいます。これが現在の渡月橋の始まりになります。道昌僧正は弘法大師から「虚空蔵菩薩の霊験あ
る相応の地は嵯峨葛井寺である」とのお示教により、大悲の願力を発起して、虚空蔵求聞持法百日間参篭修
行、満願の日、生身の虚空蔵菩薩を空中に感得、虚空蔵尊像を刻し、神護寺で弘法大師の供養を経て、この
葛井寺に安置、お祀りするようになったと伝えられています。
その直後清和天皇の貞観十年 (868年) 葛井寺を法輪寺と改められました。
♥平家物語が語る小督局の悲しいお話♥
琴の名手で美しいことでも評判の小督局が高倉天皇の前で琴を奏でたとき、たちまち天皇は小督に心を奪わ
れてしまう。しかし、中宮建礼門院が清盛の娘であったことが悲劇の始まり。天皇が小督を寵愛しているこ
とを怒り、小督抹殺を感じた小督は、秘かに宮廷を抜け出し姿を隠してしまう。天皇は姿を消した小督探索
を源仲国に命じ、仲国はある夜、法輪寺橋の近くで聞き覚えのある琴の音を聞くと小督と確信し、馬上で琴
の音にあわせ笛を吹く…、天皇の思いを伝えて小督を宮廷へ連れ戻したという。天皇寵愛で御子を宿したこ
とがさらに清盛の怒りを招き、無理矢理に小督は出家させられてしまいます。その晩年小督が庵を結び生涯
を終えたのがこの法輪寺の境内だったといわれています。
(場所については諸説があり、常寂光寺や清閑寺には遺物が残っているそうです)
▼参道と山門。
▼山門。うるしの日の横幕がありますが、法輪寺は工芸、技芸などにご利益があると信仰されてるそうです。
▼参道は鬱蒼のみどり。
▼手水舎。
▼本堂。十三参りの祈祷中は入堂で来ません。
十三参りとは、数え年十三歳の男女が、厄難払い、智恵授けで虚空蔵菩薩に祈願することで、古くは虚空蔵
菩薩縁の旧3月13日( 現在の4月13日 ) 参拝したのが、現在では通年で行われています。
▼本堂扁額と虚空蔵さんの提灯。中から祈祷の声が朗々と。
▼このお像賓頭盧さんでしょうか。少しばかり印象が違います。
▼本堂。
▼針供養塔。清和天皇の命により始まったといわれ、毎年12月8日、皇室使用の針が納められ針供養が行わ
れるそうです。
▼多宝塔。
▼鐘楼。
▼薄化粧の嵐山を借景にした本坊。
▼展望台。
▼展望台から嵯峨の町並み。
▼渡月橋も人 人 人 人 人。
▼展望台から東山、中央京都タワー。
▼電電宮。参道の中途に鎮座。
▼電電宮の説明板。
▼電電宮本殿。
▼参道を下りすぐのところ、左に道をとります。
▼庭園かどうかはわかりませんが生け垣に囲まれた不思議なところ発見。
石のサークルが見えます、何でしょうねェ。
▼まだまだ。
▼御朱印。
今日訪ねた三ヵ寺は、悲恋、哀歌が共通して残るお話を平家物語が伝えています。が、そんな悲しい哀話は
平家物語の中だけで、その名残りは嵯峨野人気の煽りで何処かへ行ってしまったようです。
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