(2016.03.20訪問)
願行寺から迷車大和路号は吉野路を怪走。桜シーズンになればピンクで埋もれる中千本の真っ只中にある如意輪寺を目指しています。
吉野のお山はまだ桜っ気はありません。よって迷車大和路号はスイスイです。
後醍醐天皇や護良親王、楠木正成と正行、彼らの生き様、敗者の美学を一様に見ていた吉野山中の如意輪寺、敗者復活ならずの一部始
終は儚い桜花の如し、僅か数代で消えた南朝のゆめまぼろしを、楠木正行二十三歳覚悟の辞世を偲びに……。
▼参道石段。
[ 如意輪寺 ]
●山号 塔尾山(とうのうざん)
●院号 椿花院(ちんかいん)
●寺号 如意輪寺(にょいりんじ)
●宗派 浄土宗(じょうどしゅう)
●開基 日蔵道賢上人(にちぞうしょうにん)
●開創 延喜年間(901~923年)
●中興 慶安三年(1650年) 文誉鉄牛上人(ぶんよしょうにん)
●本尊 如意輪観音菩薩坐像(にょいりんかんのんぼさつざぞう)
▲拝観 400円 朱印 300円
▲時間 四月観桜期 7:00~17:00 その他の時期 9:00~16:00
▲奈良県吉野郡吉野町吉野山1024 電話0746-32-3008
▲http://www.nyoirinji.com/
▲近鉄電車「阿倍野橋駅」から近鉄吉野線特急終点「吉野駅」下車 吉野ケーブルで「吉野山」下車 徒歩約35分
クルマの方、ナビでどうぞ
▼山門。
如意輪寺縁起 (如意輪寺HPから抄出)
延喜年間(901~923年) 文章博士三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人の草創にかかり、後醍醐天皇吉野に行宮を定
め給うや勅願所となった。正平二年 (1346年) 楠木正行公一族郎党百四十三人と共に参詣の事があった。正中以来寺運衰退したが、慶
安三年 (1650年) 文誉鉄牛上人きたり、本堂を再興浄土宗とし、念仏を弘通、ひたすら御陵の守護に任じた。当山は中千本の桜樹のあ
いだ、緑連なる山腹にある当山を、陽春四月桜花咲き乱れ香雲あいたいたる中に、あるいは、秋の紅葉錦を布くとき、あるいはまた、
枯れ木をおおう白雪の中に望見すると、大小の伽藍甍を配して連なり、けだし、天下の絶景これに勝ぐるものはない。現在、如意輪堂
(本堂)、多宝塔、御霊殿、幽香楼、報国堂、宝蔵、鐘楼、庫裡等の建造物がある。
▼山門から本堂。木札には吉野朝勅願所 如意輪寺と楠木正行公遺跡と書かれています。
▼本堂(如意輪堂)。桁裄五間、梁間五間、寄棟造、銅板葺、一間向拝付。慶安三年(1650年)再建。
本尊 如意輪観音菩薩坐像(秘仏)。
▼本堂前に寺号石碑。建てる場所ココじゃないでしょう?
▼本堂正面。中を窺うことは出来ません。
▼向拝貫の彫刻ですが、天女と瑞鳥の舞でしょうか、細かな彫刻です。
▼本堂を斜めから。
▼本堂横の如意輪寺ガイド板。
▼不動堂。
▼不動明王立像を中に右に矜羯羅童子 (こんがらどうじ ) 左に制多迦童子 (せいたかどうじ) 不動三尊形式の石像が本尊。
▼鐘楼。
▼鐘楼横に役行者堂。簡素なお堂です。
▼前鬼後鬼を連れない役行者お一人の像です。
▼立派な庫裡なんですが、何か建て付け普請をしているのか、中のものをおっ放り出して、折角の唐破風玄関に近づけません。
▼折角ですので大屋根と唐破風を撮っときます。
▼受付を済ませて中庭を通り多宝塔に向かう途中に宝物殿。
有名な楠木正行の四条畷出陣の折に詠んだ歌を刻んだ旧本堂の扉を見ることができます
かえらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる
▼吉野の桜はまだまだですが、一本の河津サクラが満開で冬枯れに色を添えていました。
▼多宝塔が高台に建つのが見えます。
▼多宝塔。総欅造り、本尊阿弥陀如来坐像、納骨堂です。
▼上層胴と外縁の円、放射状組み物のコンビネーションの美。
▼多宝塔。
▼多宝塔の相輪。
▼境内山側に立つ後醍醐天皇を祀る御霊殿。後醍醐天皇自作の木造を安置。
桁裄三間、梁間五間、入母屋造、一間向拝唐破風付。妻側が正面になっています。小さいながらも堂々の貫禄、立派なお堂です。
正面折り戸は閉め切り。
▼唐破風下の彫刻。相当細かい細工で上下二段で構成されています。何か由緒ありそうな彫刻ですネ。
▼堂内内陣の様子。中央お厨子に後醍醐天皇木造を安置。(この写真は数年前のご開帳時に撮ったものです)
▼御霊殿。
続いてこの地で崩御した後醍醐天皇塔尾陵(とうのおのみささぎ)にお参りしましょう。
後醍醐天皇
建武の中興後、尊氏の反逆で束の間の夢と破れた後醍醐天皇は、延元元年(1336年)吉野山に身を寄せ、吉野南朝を立朝、延元四年 (13
39年) 八月皇位を後村上天皇に譲位、五十二歳で崩御。後醍醐天皇が病の床に伏されたとき次のような歌を詠まれています。
身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん
と詠み、都を憧れつつ崩御。 遺骸は勅願所とされていた如意輪寺の裏山、塔の尾へ埋葬され、後醍醐天皇の意思、京都に対する願いを
表すために、天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっており、北面の御陵として有名です。
▼後醍醐天皇御陵札。
▼参道石段。
▼後醍醐天皇塔尾陵。
▼後醍醐陵への途中に後醍醐天皇孫の長慶天皇、その皇子の世泰親王(後醍醐天皇の曾孫)の墓所。
▼如意輪寺の裏門。この前が駐車場。
▼御朱印です。
特 別 フ ロ ク
▼中千本のサクラに埋もれる如意輪寺。多宝塔が見えますネ、分ります? (写真はネットからもらってきました)
儚く消えた夢の跡を、境内を歩いていて感じることはありません。北面する後醍醐陵の前に立ち、都奪還を望んだ天皇の胸中いかばか
りだったのかが僅かに胸を揺するくらい、公武の戦の勝者敗者は史書が語るのみ、如意輪寺は六百数十年の時の流れの断片を僅かに残
して、吉野山中にその姿を留めている。そんな感じのお寺でした。
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