塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

思い入れ、選手が下した決断の中身

2013-01-28 23:26:12 | 日記
 「勝利を掴みとろう、長野パルセイロ」

 ゴール裏からインチャーダ・ナガノの皆さんがチャントを謳い、選手を鼓舞する瞬間が最高の気分だというパルセイロ
ファンはおおいでしょう。

 そこには前回お話した、皆さん一人一人の思い入れが詰まっている為です。

 サッカークラブは地元に根差し、ひとりでも多くの生え抜きでクラブを構成したいと思う物ですが、そうたやすい話で
はありません。

 だからこそ他県からやってきた土橋(山梨県)がパルセイロのアンバサダーに就任し、先日引退を表明した籾谷(大阪府)
が普及部でコーチを務める決断をしてくれたことに、僕は大きな敬意と感謝を払いたいと思います。

 ふたりとも

 1・地元に帰ってコーチ、アンバサダーを目指す
 2・移籍して現役続行

 という可能性はあったと思います。

 でも彼らはここ「長野」で僕たちと共に歩んでくれる決断をしてくれました。

 クラブが生え抜き選手を監督にすると、ファンから大きな反響を集めますがそれは監督の現役時代、自分たちと共に汗を
長し、声を張り上げたことを皆が覚えている為です。

 だからこそファンも選手も

 「監督に恥をかかせてはいけない」

 と思うのでしょうし、そのプレッシャーが良い方向に回ったのがブッフバルト時代のレッズと言えます。

 パルセイロ出身の選手たちは上田ジェンシャン、アルティスタ東御という同じ県内のクラブに在籍していることも多く、
長野県のサッカー発展に欠かせない存在であることを忘れてはいけません。

 アマチュアでの生活は楽でないでしょうが、だからこそ共に喜びを味わえる仲間として、サッカーに携わっていきたいも
のです。
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思い入れと言う気持ち

2013-01-28 23:16:01 | 日記
 どうして僕は長野パルセイロを応援しているのか、それは長野という土地に「思い入れ」がある為です。

 今も昔も長野に出かけることは最高の気分転換であり、楽しみです。

 今の時期は2か月に一度出かけられたら良い方ですが、夏場は南長野に出かけた後、千曲に返らず長野まで立ち寄って
散歩を楽しむことも多いですが、その街並みは絶えず変化しています。

 僕が学生時代、部活動で試合の帰りに長野市周辺を散策していた20年前の方が、活気と人通りという点では勝ってい
ます。

 でも活気があろうとなかろうと、僕にとって長野はやはり最高の街なのです。

 「おらが街」

 プロサッカーでは常套句のように用いられるこの言葉、僕たちは改めて噛みしめてみる必要があると感じます。

 僕が山梨学院大学を卒業する時

 「甲府は今後、間違いなく僕の第2の故郷になる。」

 そう強く感じましたし、事実その通りです。

 では何故第「2」なのかと言えば、僕は甲府で仕事を探す気が無く、長男であることも考慮して千曲で働くことを入学
の際に既に決意していました。

 でも、もしその考えを覆し今でも甲府に住んでいたならば、今頃ヴァンフォーレとパルセイロの間で板挟みになってい
たはずです。

 大学当時は当然パルセイロ、その頃の長野エルザを知る由もありませんでしたし、ヴァンフォーレの存在そのものを軽ん
じていました。

 しかしヴァンフォーレは山梨中銀スタジアムを満員にできるほど人々から愛され、パルセイロもその活動が多くの賛同を
得る形になりました。

 「故郷のクラブか、今住む街のクラブか」

 このテーマで悩む方も多いでしょうね。

 僕は自分の胸に手をあてて、思い入れを強く感じるクラブに声を欠けてやったら良いと思います。

 自分の心に素直になれば楽になるでしょうし、カテゴリーが異なるのであれな両方の成績に注目しても構わないと思いま
すね。
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日本から欧州へ、ではその逆は

2013-01-28 01:55:21 | 日記
 現在のJリーグと欧州の溝は第4段階に入った。

 僕はそう解釈しています。

 ではその前の段階をどう捉えるかと言いますと、以下のようになります。
 
 第1段階 奥寺、尾崎、風間がドイツに渡った70年だと80年代。まるで未開のジャングルを開拓するような心境
 第2段階 カズ、中田、小野、稲本など、欧州への道が開拓された90年代中期から2000年代前半
 第3段階 香川がその道を舗装し、完全なルートを確立した2010年

 そして第4段階というのは、この舗装道路が高速道路に進化しつつあり、同時に2車線、3車線に変化する兆しがあ
る点です。

 つまり欧州だけでなく、北米や東南アジアでプレイする日本人選手がそれだけ増えた証拠になります。

 しかし、改善点もあります。

 今の所、この現象は日本から海外への「一方通行」であり、海外から日本へのルートはまだまだ未発達という事です。

 それは韓国た中国もそうでしょうし、例えばマレーシア・リーグにスペイン代表グイサが加入する際は大きな注目を
集めましたが、彼もアネルカ同様西洋に戻りたいと考えているかもしれません。

 日本は確かに地理的にハンディがあります。

 でもそのハンディは日本人選手の移籍と言う結果で、盲目の代物だということが白日の下に晒されました。

 ですから工夫次第では外国籍の選手を呼ぶことは可能ですし、欧州同様に移籍金0の選手を注意深く観察する事も今後
不可欠でしょう。

 僕は簡単に外国籍選手の獲得と言いますが、それが困難な作業であることも重々承知しています。

 ならば育成も含めたクラブも礎を見直すことも必要でしょうし、日本も世界市場の仲間入りをもった大胆に出来る日を
待っています。
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往年の名勝負、異なる価値観を受け入れる

2013-01-28 01:41:53 | 日記
 トシちゃんが往年のヒットソングをかつてと変わらないステップで踊りながら熱唱すると、会場に集まったファンは
もう大騒ぎです。

 トシちゃんだって歌手なのですから、新曲も聞いて欲しいはずです。

 でもファンがかつての自分の姿をヒットソングに重ねあわせていることも重々承知しているでしょうし、むしろ名曲
で固めたステージ構成の方が盛り上がるでしょうね。

 例えば僕が37年生きてきた中で、最も爆発的な人気を得たグループは明らかに

 「光ゲンジ」

 でしょうが、ファンは彼らがもう一度舞台に立つ夢を見ながらも、映像や書籍で当時を思い出していると思います。

 サッカーも同様で、人それぞれ思い入れが違います。

 後藤健生氏が1986年のブラジル対フランスを、ワールドカップ史上最高の試合を唱えていますが、僕はこの試合
をビデオで鑑賞したものの同意は出来ませんでした。

 それは僕が90年代からサッカーを観始めた影響上、プレッシングとダイレクトプレイに見慣れていたことが大きく
関与しています。

 1980年代のワールドカップは、確実に時間がゆっくり流れていました。

 後藤氏が賀川浩氏のように、丹念にワールドカップに取材を行っている方からすれば、選手個人がボールを持つ時間が
保てた、かつての時代が良かったと思うかもしれません。

 逆に近年ワールドカップに関心を抱くようになった方は、現在のスピーディーな展開とより洗練された守備を見せる
サッカーが素晴らしいと思い、かつてのサッカーには共感できないかもしれません。

 しかし、僕は見方は個人個人差があって当然だと思いますし、その意見は大切にしたいものです。

 ちなみにマラドーナと光ゲンジが活躍した時代は丁度重なりますが、サッカーと芸能界、畑は違えど両者はある意味
日本で最も人気を得た80年代の人物と言えます。

 (参考資料 スポーツ20世紀 サッカー名勝負の記憶 ベースボールマガジン社)
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