高浜二郎は、三木露風が1905(明治38年)7月15日に発行した処女詩集『夏姫』に、高浜天我という名で序を寄せている。『三木露風全集 第一巻』(安部宙之介編 三木露風全集刊行会 1982年)より、その部分を引用してみよう。
我が友三木露風、こたび其詩を集めて一巻となし、之を文壇に放ちて世に問はんとす、友としての我、焉んぞ之が為めに、辞無きを得むや。
(中略)
我が見るところに依れば露風は頗る熱烈なる文芸の渇仰者なり、其餓ゆる如き文芸の食慾力、其狂するが如き文芸の創作力、それらを以て判断するに彼は当来に於いて大に有為有望なる運命を担へるは疑ふべくもあらず、殊に我が彼に最も喜ぶは素質の強健なる、気力の清剛なるに在り、之を彼の世上滔々たる善泣の女性的作者に比すれば人格の高き、約数等の上位に座するものなることを知るべきなり、この一点を以てするも我が彼の当来に嘱望するの甚深甚大ならざるを得ざるのみならず、延いては文壇の為めに喜ばざるものあつて存す。
嗚呼、露風の当来は確かに我が文壇の波浪濤瀾に接触せり、最も熱烈なる文芸の渇仰者としての露風の当来が我が文運の隆盛に尠からざるの影響を有すべきことは我が塵も疑はざるところ、乃ち我が露風に望むところは其得意の韻文の創作を以てして彼の自信力なき一派の作者を速に埒外に排し了して我が文壇の一角に鮮明なる旗幟を樹つるの一事是れなりとす。
然り、この一巻の詩集『夏姫』は露風が文壇に進入する歩を起こすの宣言か、我は露風の為めに之を祝すると共に、由来偏狭なる我が文壇に対して進むの歩一歩益々勇ならむを求む。
明治三十八年六月
序を寄せた9人の中で、最も熱く語っているのが高浜二郎だった。21歳のときである。その後すぐに、祖父は朝鮮半島へ渡ることとなる。
我が友三木露風、こたび其詩を集めて一巻となし、之を文壇に放ちて世に問はんとす、友としての我、焉んぞ之が為めに、辞無きを得むや。
(中略)
我が見るところに依れば露風は頗る熱烈なる文芸の渇仰者なり、其餓ゆる如き文芸の食慾力、其狂するが如き文芸の創作力、それらを以て判断するに彼は当来に於いて大に有為有望なる運命を担へるは疑ふべくもあらず、殊に我が彼に最も喜ぶは素質の強健なる、気力の清剛なるに在り、之を彼の世上滔々たる善泣の女性的作者に比すれば人格の高き、約数等の上位に座するものなることを知るべきなり、この一点を以てするも我が彼の当来に嘱望するの甚深甚大ならざるを得ざるのみならず、延いては文壇の為めに喜ばざるものあつて存す。
嗚呼、露風の当来は確かに我が文壇の波浪濤瀾に接触せり、最も熱烈なる文芸の渇仰者としての露風の当来が我が文運の隆盛に尠からざるの影響を有すべきことは我が塵も疑はざるところ、乃ち我が露風に望むところは其得意の韻文の創作を以てして彼の自信力なき一派の作者を速に埒外に排し了して我が文壇の一角に鮮明なる旗幟を樹つるの一事是れなりとす。
然り、この一巻の詩集『夏姫』は露風が文壇に進入する歩を起こすの宣言か、我は露風の為めに之を祝すると共に、由来偏狭なる我が文壇に対して進むの歩一歩益々勇ならむを求む。
明治三十八年六月
序を寄せた9人の中で、最も熱く語っているのが高浜二郎だった。21歳のときである。その後すぐに、祖父は朝鮮半島へ渡ることとなる。
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