昏き野に まことをもだす 血の赤み 野苺を知る 月影もがな
*人間の歌が続いたので、今日はわたしたちの歌をいきましょう。読めば、なんとなく違いがわかるかもしれません。人間と比べると、わたしたちはきつい。感覚を責めるところが痛い。
「もだす」は「黙す」で、もちろん黙ることです。こういう古語の単語は細やかに覚えておくとよろしい。すぐに生かせます。「赤み」の「み」は形容詞の語幹などについてその形容詞を体言にします。他にも用法がありますが、ここは「赤いところ」と訳しましょう。「もがな」はよく使われるから知っている人も多いでしょうが、体言や形容詞の連用形などについて願望の意を表します。「~があればなあ」などと訳されますね。
暗い野に、真を言わずに沈黙している、血のように赤いところある。その野苺を見つけることのできる、月の光があればいいのに。
麗しいですね。少し悔しさがにじみ出ている。野で花ばかり見つめていたあのひとの真の心を、みんなに教えてくれるいい人がいればよかったのにとの、意にとれます。
あの人は口下手というか、人が苦手な人でしたから、あまり人間に近寄って行かなかった。難しいことが人間世界にはいっぱいありましたから、そういうものの一切から逃げて、野に行った。そこで花とばかり話していた。人間は誰もあの人の心がわからなかった。
ただ美しい女性だというだけで、頭から馬鹿な女だと決めつけて、その色目で見た姿をあの人に投影し、勝手に馬鹿なことを考えていたのです。
それがあまりに痛々しかったので、詠み手にはあの人の存在そのものが、赤い血を吹き出す傷のようにさえ見えたのでしょう。それを赤い宝石のような一粒の野苺に擬しているのは、詠み手のかのじょへの愛でしょう。それほど大切なものだと思っているということです。
大切な人のことを、玉にたとえることは多いが、それから発展して、宝石のようなものにたとえることも多い。確かに、野をさまよっていて、ふと真っ赤な玉のような野苺に出会うと、くっきりと心に印象が刻まれる。まるで赤い血の玉のようだ。何かを叫んででもいるようだ。大切なことを。
実際、野苺は、とても大事なことを言っているのです。人間にはまだわからない言葉で、人間の迷いをいさめる言葉を、ずっと発しているのです。それがどういうことかは、いずれあなたがたにもわかる。
野苺の赤みは、まるで、人間が何も知らないうちに傷つけ続けてきた自然界の傷から噴き出る血のようだ。見ているとあまりにも痛い。