野菫の あをき諫めを 聞きもせで 悲しからずや 花を踏む君
*本歌取りです。読めばわかりますね。だがこれもパロディに近い。元歌は晶子のこの歌です。
やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君 与謝野晶子
牧水や子規と同じように、わたしは晶子も評価しません。歌は自分で歌っているようだが、あまりよいとは言えない。名声は、おそらく人から盗んだものでしょう。恋歌の詠み手としても、和泉の方がずっと上です。
有名な歌ですが、こんなに人口に膾炙するほど、質の高い歌だとは思えません。実質、霊的操作をすれば、他人のものになるはずの名声を、自分のところに持ってくることもできるのです。本当は、与謝野晶子の名声は、ほかの人が浴びるべきだった。そうすれば、こんな歌を読んで、自分のわがままを肯定するようなことをする女性は減ったでしょう。
よい女性なら、道を目指す男に、色を仕掛けて迷わせようなどとはしないものですよ。好きな男を女の色気で迷わし、いらぬことをさせたりなどしない。そんなことを平気でするのは、男のつらさ厳しさがわからない、馬鹿な女性だけです。こんな小便臭い歌を平気で詠える。
晶子はかなり男性を馬鹿にしています。確かに馬鹿な男は多いが、女もこれほどあからさまに馬鹿にしてはならない。嫌なことが自分に返って来る。男への復讐は、神にまかせるのが賢い女性のやり方だ。自分から復讐をしたりなどすれば、女は男になってしまう。そうなればもう、女の手管など使えない。そんな女の色香など、ありはしないものだからです。男は女が女の色気を使って男のようなことをしようとしていると感じる。馬鹿な男は引っかかるかもしれないが、女が好きになるようなよい男は、逃げていきます。
そういうことをわからない女性の歌が有名になってしまったら、こんな歌を引いて、こんな生き方をする女性が出てきてしまう。それは愚かなことです。
ここで、表題の歌の解説に行きましょう。
野の菫の、青い花が諫めている声を聞きもしないで、なんと悲しいのだろう、あなたはその花を踏んでいくのか。
菫というのは厳しい花です。小さくて可憐な花だが、いつも馬鹿なことをしている人間をいさめている。勉強をして、感性が進んだ子は、菫の花の青さを見ると、何かを感じて、自分を抑えていくものなのだが。青い色というのは、血汐の赤とは違い、自分を引いていく方向に行かせるものですから。
そんなことにも気付くことができない子が、人の気持ちや周りの気持ちも考えないで、女の色気を使って思う男を何とかしようなどと思うものなのですよ。