ほとばしる 熱き思ひの 消えわびぬ 我が紅梅を 照らせ月読
*これは、女性の弟子の作品です。恋の心を詠いたいというので、指導をしてみました。先に二つほど見本を作って見せましたが、どうも自分の心と違うというので、いろいろと心を探りつつ、言葉を繰ってみたものです。
まだ初心者なので、少々ぎこちないが、ぎこちないのがいい。初恋も、最初から上手に恋ができたのではおもしろくないですしね。上手に恋ができない心の、芽生え始めた芽のような、おずおずと発現する、不器用な心がよい。
恋しい人を思ってほとばしる熱い思いが、消えなくてつらい。この紅梅のようなわたしの心を、どうか月よ、照らしてください。
「紅梅」は「こうばい」ではなく、「べにうめ」と読みましょう。そのほうが作者はいいそうです。自分の恋する心の姿を花にたとえてみよと言ったら、こう答えました。
「月読(つくよみ)」は月のことだが、4文字でいいのなら月影もいけますね。だが本人は月読のほうがよいようだ。おそらく、日本神話の月神のイメージがあるものでしょう。月読命にはとても麗しい貴公子のイメージがある。彼女が思い焦がれている男性は、そういう人なのかもしれない。
男性には、素戔嗚尊のような荒ぶる男がもてることにしたいという心理がありますが、ここらへんは外してはいけませんよ。女性は、確かに素戔嗚尊のような男性もかなり好きだが、月読のような、麗しくて紳士的な男性の方が、本当はいいのです。乱暴なことはしないし、とてもやさしいことをしてくれる。静かに愛してくれる。まるで月のように。
麗しい月読のような青年と見つめあうことなど想像すると、女性は心が溶けるようになってしまうのです。愛という甘い幻想に酔ってしまう。自分というものがなくなってしまいそうなほど、愛する人の中に溶けてしまうのです。
馬鹿なことだと言ってはいけません。こんな女性のやわらかな気持ちも理解してあげなくては。彼女らは、自然に、男性を愛してしまうように、神に作られているのです。その愛が素直に溶けていける月読のような心を持っている男性がいたら、もう何もかもを忘れてついていきそうにさえなるのです。
男には、素戔嗚尊のように、荒ぶる力を発揮せねばならない時もありますが、かわいい女性と対話する時には、時に月読のような麗しい紳士にもならねばいけません。これができないというなら、いつまでもよい男にはなれませんね。
そろそろ、子供みたいな馬鹿な真似はやめましょう。子供のわがままと、素戔嗚の勇気は、違うものですよ。