ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

念仏は

2017-07-05 04:21:29 | その他





念仏は 嘘と言へずに 坊主去る     夢詩香






*久しぶりに17文字です。やはりここまで言葉が少ないと、きついものがありますね。31文字ならもう少し柔らかくいうこともできるだろうが、17文字では無情に切られてしまう。

仏教の嘘については、前々から言っていることですが、釈尊は人間を愛してはならないなどと言ったことはありません。この世界の者はすべてむなしいなどと言ったこともありません。

諸行無常という言葉は有名だが、それは実際は、悪いことをしている者の栄華は長く持たないという意味にとった方がよろしい。因果応報は世の常です。悪いことをして、栄華を得て、傲慢に落ちて、人をいじめてばかりしていると、すぐに法則上の反動が来てしまう。そしてあれほど盤石に見えた世界が、もろく崩れていく。

人間はそういうことばかり繰り返しているのだが、それが自分のせいだとはなかなか気付かない。世の中自体がそういうものだと思い込んでいる節がある。しかしそうではない。人間が確かな愛を土台にして、よいことをしていけば、栄華というのはそれほど派手ではないが、それなりに自分に似合った幸福の姿をとって、生涯より添ってくれる妻のように、常にそばにいてくれるものなのです。

そういうことに気付くまで、人間は諸行無常の風の中をさまよい続けるわけです。

仏教というものは、釈尊に関する根本的な誤解から生じています。そういう話はかのじょが月の世の物語の「聖」という話で書いてくれましたね。読んだ人はきついほど驚いたでしょう。あれだけで、仏教がすべてひっくり返ってしまうような話です。実際、もうほとんど仏教はひっくり返っています。形だけはあるが、思想は霧のように消えているのです。信じても何もありません。お経をあげたり、観音様にお参りしても、何も功徳はありません。

もちろん、南無阿弥陀仏を唱えても、それだけで救われたりなどはありません。

他力本願というのは、間違いです。もちろん他力は絶対に必要ですが、それを本願として自分は何もしないというか、自分のすることに価値を全くおかないというのは愚かなことです。自分を信じないということだからだ。

釈尊という人は、自己存在の真実の姿を、彼なりの美しい言葉で語っていたのです。だがその真意を理解できる人が全く周囲にいなかった。ただ釈尊の姿の立派なことと、行いの美しいことに目を見張って、単純にああいう人になりたいとみなが願って、それぞれの自分を捨ててしまったというのが、仏教の過ちの始まりです。

まあ、わかりますね。人間が自分より釈尊がいいと単純に思って、あの人になりたいと願ったものだから、すべて自分を否定してしまった。だから、ああいう宗教になってしまったのです。

仏教はこれから、だんだん小さくなっていくでしょう。正しい自己存在の真実の教えを語るには、仏教ではあまりに材が少なすぎる。むしろ、論語のほうがよい。孔子の言葉の方が基本的に、人間が自分を実行していくうえで大きく参考になります。

仏教を追いかけていれば、自分が何をしても所詮は無駄だと言う感じにどうしても流れていく。それが宗教的権威と結びつけば、あまりに馬鹿らしい存在ができる。

坊主は潔く非を認めて、静かに消えていくがよろしい。

釈尊は仏教の過ちを痛いと思っていますから、いずれまた、あなたがたに正しいことを教えにきてくれるでしょう。その時こそは、彼の真意を理解してほしいものです。







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