打ち消さる 月をあはれと 見む人は おのれ頼りて 馬鹿を払へよ
*これは本歌取りです。元の歌は、吉田松陰の留魂録の末尾に記されたこの歌です。
討たれたる 吾れをあはれと 見ん人は 君を崇めて 夷払へよ 吉田松陰
刑場に引かれていく前に、あわただしく詠まれたいくつかの歌の一つで、推敲をする暇などもちろんあるはずがない。土から引き抜かれたばかりの泥だらけの大根のような感じがあります。もう少し時間があったなら、もっと整った感じにできたでしょう。
この歌は、自分が松陰の気持ちになって推敲を試みてみたという感じのものです。
玉砕という言葉の元になる表現も、留魂録の中にありますが、こういう表現は太平洋戦争中の人間にいじましい使われ方をして、随分と汚れてしまいました。「夷(えびす)払へよ」、異民族を追い払えという言葉は、幕末の当時としては国の滅亡を本気で心配していた松陰の魂から出た言葉だったのだが、後の日本の愚行が、それに歪んだ意味をかぶせてしまいました。
それはとても痛いと感じている人が、その歌を現代における自己存在の真実というテーマに詠みかえて、表題のような歌にしてみてくれたのです。
自分を見失った馬鹿な人間によって打ち消されてしまった月のことを、哀れと思うのなら、自分の中の本当の自分を信じて、自分を馬鹿にしている馬鹿というものを、自分の心から追い出せ。
こうすれば、夷を払うという言葉は、真実、自分の中から間違ったことを追い出し、本当の自分の美しい姿になって、嫌なことがすべて去っていくだろうという意味になります。
松陰のやろうとしていたことも、本当はこれだったのだ。なぜ異民族が攻めてくるのか。それは彼らもまた自分が嫌だからだ。自分が馬鹿だと思っているから、自分をことさらに強大にしようとするのが馬鹿というものだ。そのためになんでも人から奪おうとする。そういうものが国を攻めてくれば、国が大変なことになる。
それを憂えて、国を救うためにあらゆることをして、時代の壁にぶつかって粉々に砕けたのが、松陰という人だったのです。
その人が残してくれた歌を、土から引き抜かれた大根のようにそのまま放っておくのは惜しい。何とかしていいものにしてやりたいと思うのが、友情というものだ。
ジョルジョーネの遺作をティツィアーノが完成させ、それを不朽の名作にしたように。
本歌取りというのは、そういう意味でも、よい文化ですね。互いの歌を高めあうことができる。
いろいろとやってみてください。