はつこひの 愚かなりしを ととのへて 我が衣に染む 花紋としき
*これはかのじょの作品ですね。よい歌です。名作として伝えられてもおかしくはない。あの人のやさしさが隠れている。
初恋というものは、初めての恋だから、人間はまだ上手に恋ができない。それゆえに愚かなことをしてしまうものだ。だがそれで自分を捨ててしまわずに、やり直し、勉強し、整えて、自分の衣に染める花紋のように、美しくしていきなさい。
女性そのものだと言う人ですが、基本は男だということが、これでわかるでしょう。あなたがたが自分に恋して、愚かなことをしているのは知っているが、どうかいつかはそれを悔いて立ち直り、愚かさに汚れた自分を何とかしていってほしい。そして立派な人になってほしいものだ。
過ちて改めざる、これを過ちという、と言った孔子の心と、同じですね。ただこの人生ではかのじょはとてもかわいらしい女性になってしまったので、このように、まるで和泉式部にならったかのような、ほんのりと艶めいた歌になってしまったのです。
孔子は、南子のような美女には苦い思いを抱いていたが、この人生でのかのじょは、和泉式部のような情熱的な女性にも敬意を表して、その表現力にも学んでいました。高い魂というものはやわらかい。男ならば少し引いてしまいそうな痛い女性にも、女の身になれば頭を下げて習うこともできる。そして自分に生かすことができる。なお、南子(なんし)は衛の霊公の夫人で、美人だが淫蕩な女性として有名でした。論語には孔子がこの女性に招かれてやむなく謁見に応じたのに、弟子の子路が激怒するという挿話が書かれています。
それはともかくとして和泉式部の方にいきましょう。
物思へば 沢のほたるも 我が身より あくがれ出づる 玉かとぞ見る 和泉式部
これなどはわたしも好きです。情念と言うまではいかないほどの、抑えられた情熱が良い。恋に情熱的に生きた女性で、紫式部にも一目置かれていたらしい。ものを思うていると蛍も自分の身から出てきた玉かと見えるものだ、などというといかにも不穏な感じもするが、同時にそういう自分を冷静に見ている自分というものも表現されている。
和泉式部は恋をしつつも、溺れ果てて身を破滅させるほど愚かではなかったのでしょう。秀逸な恋の歌にその知性が現れています。かのじょが勉強をしたいと思うのもうなずける。
しかし表題の歌は、和泉に比べると、いかにもおとなしいですね。そこはそれ、恋などできない人ですから、一生懸命師を見習いつつも、歌はまるで女童(めのわらは)のようにかわいらしくなる。内容は論語と似てとても高いのだが。
南子の前で恭しく礼をとっている孔子の姿が目に浮かばないでもない。
ならふなら 南子も見むと 孔子は言ひ 夢詩香
まじめなあの人らしい。一応恋を詠ってはいるが、とても硬い。恋というものを深め、高い知性を骨としつつも、やわらかでみずみずしい情感を詠ってくれる女性の歌は、人類の女性に頼みなさい。それはそれは、彼女らの方が、人間の男の魂を喜ばすことのできる、美しい歌を詠ってくれるでしょう。
高い愛を知っている男と女がかわす、相聞歌なども読んでみたいものだ。