籠り沼の 下もなきほど 独り身の さみしき猿と なりにけるかも
*「籠り沼の(こもりぬの)」は「下」にかかる枕詞ですね。同じようなのに「隠れ沼の(かくれぬの)」があります。どちらも魅力的な言葉だ。活用しましょう。ちなみに「籠り沼」とは草木が茂った下に隠れて見えない沼のことです。
籠り沼は下が見えないが、その下もないほどに、独り身がさみしい猿となってしまったなあ。
まあ、現代風に訳せばこうなりますか。別に枕詞は訳さなくてもいいのですが。意趣はなんとなくわかると思います。
猿のように自分のことばかり考えて、わがままばかり盛んにって、人に迷惑をかけつくしたら、とうとう誰にも相手にされなくなって、この下はないというほど孤独になってしまった。
そういうことになってしまった人を、たくさん見ていることでしょう。
今の時代は、傲慢にふるまって人を馬鹿にしている方がかっこいいなんて風潮がありましたね。アニメや漫画なんか見ても、子供みたいな主人公がずいぶんと傲慢なことを言っている。威勢のいいことといったらないが、実際の世界では、10代や20代の若造が人類を救ったり地球を救ったりなどできるはずがありません。その年代はみな勉強の真っ最中だ。恋愛や結婚をして、子供を作り、額に汗して働いて、社会を勉強せねばならない。
天使もそういうことをしていましたよ。人類の救済ということを目標に掲げた時、かのじょがいちばん先に感じたのは、自分の実力不足でした。だからその大目的のために、まずは勉強しようと考えたのです。
途中で妙な宗教グループに参加したりしましたがね、あれも勉強したかったからです。自分は神やこの世界の真実について実に無知だ。だからそれについて知っている人に学びたかったのです。
その結果、実に面白いことを学びましたね。教祖の言っていることには、おもしろい真実も含まれていましたが、大方は嘘でした。そういうことは、そのグループをやめてからわかりました。
痛い授業料を払ったが、大きく経験値を稼げた。学びというものはこういうものです。時には愚かな失敗も経験せねばならない。そうして大人になり、十分に実力がついてきたころ、かのじょはあの日記を書いたのです。
救済というものは、そういう勉強をしてきてこそ、できるものですよ。
若いうちがかわいくて威勢がいいからと、何でもできると思ったら大間違いです。何も知らないものはいつも、無知につまずいて大きな失敗をする。傲慢をかまして、やってはならないことを堂々とやり、世間に嫌われて、つらい孤独に落ちるのです。
一生の半分を、世間の人に嫌われて、孤独に過ごさねばならない。
勉強をしない人というのは、たいてい、人生の後半、そういう孤独な老人になりますよ。