ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

韓玉

2017-05-11 04:19:06 | 短歌






韓玉の 浅きくもりを ことさらに 言ひてまことの 色を語らず






*これも、以前試練の天使のつぶやきで発表されたものです。ワイドショーなどで、毎日のように朴槿恵の話題が取り上げられていた時でした。彼も言っていましたが、テレビで女性の悪口を言っている馬鹿男の様が、醜いなどというものではありませんでしたね。愚かな汚職の疑惑が持ち上がると、これを幸いと好きなように言っていた。自分よりいいと感じる女性をいじめてやりたいという、馬鹿男のいやらしい心が透けて見えたものです。

「韓玉(からたま)」は、外国産の美しい宝石のことです。ここではもちろん朴槿恵を表します。昔から、花や玉などということばは、美しい女性のことを表すものでした。

韓の国の美しい玉の、浅いくもりのことばかりをついて、その宝石の本当の美しい色のことなど、誰も言わないのだ。

政治家というものは、真新しい真珠のように真っ白でいられるものではありません。馬鹿なことばかりしている馬鹿としょっちゅう付き合っておらねばできない仕事ですから、一度や二度は絶対に、汚い水に手をつけねばならないのです。大事なのは、その人の誠だ。自分の欲得のためではなく、国のためであるならば、たとえくもりはついても、その石の本当の色は変わりはしない。

朴槿恵が国のためにしてくれたよいことはあるはずだ。それでみな助かっているはずだ。彼女がいてくれるだけで、助かることがあるはずだ。なぜみな、そこを見ないのか。大切なのはその人の本当の力と、国のためにそれでいいことをしようとする、真の心なのだ。

試練の天使はそう言いたかったのでしょう。できる政治家が、馬鹿に倒されていくことほど、政治家にとってつらいことはありません。

ところで、表題の歌ですが、試練の天使の作品にしては、少々うますぎると思いませんか。そう感じた人は正しい。実はこの歌には、友人による添削が入っています。

最初彼がこの歌をひねっていた時、「しらつゆの玉のくもりを…」という風に詠んでいました。「しらつゆの」は「玉」にかかる枕詞です。それを横から聞いていたある友人が、「韓玉」から始めるのがよいと、助言したのです。そうすれば朴槿恵を表す意が強くなると。彼はそれを聞いてなるほどと思い、「韓玉のあさきくもりを…」となおしたのです。

これで、歌としてはかなり完成度が高くなりました。心に響いた人も多いはずです。しかしわたしの意見を言わせてもらえば、この歌は、彼の作品にしては少々品が良すぎますね。彼はもっと、不器用な方がいい。

荒々しかろうが、ぎすぎすしていようが、鷹の爪を生で食わせるようなきつさが、彼の魅力です。まあこれもいいですが。

歌というものは、歌詠みの個性がまっすぐに現れているのがよいですよ。そこにその人の美しさを感じるのがいい。ですがわたしたちは、それぞれのまことの色を尊重しますから、時には美しい友人の色を自分に取り入れることもあるのです。

互いに互いの真価がわかっていますから。お互いによいところを提供しあうことができる。

これも、それぞれのまことの色を見て、尊敬しあっているからです。








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風の願ひ

2017-05-10 04:20:19 | 短歌






触れたきと 風の願ひの かなひたる 汝が目の前に 生まれ来し我






*昨日がとてもきつい歌でしたので、今日はこれを選んでみました。かのじょの初期の作品です。ミクシィで発表したか、旧ブログで発表したものかもしれません。もしかしたら未発表かもしれない。まあ、ここからは確かめるすべもありません。

三句目が連体形で終わるのは、係り結びの省略形です。ゆえにそこに強い意味が発生します。

あなたに触れたいと、誰かの願いが風に乗って流れてきたので、その願いをかなえるために、わたしはあなたの目の前に生まれてきたのですよ。

なんとうるわしいのでしょう。これを、あの美しい人が詠んだのだということを想像してごらんなさい。かなり効くでしょう。

本当の美の女神とはこういうものですよ。美しいからと言って、お高くとまったりはしない。美しいあなたの姿を見たい、触れあって、恋をしてみたい、などという願いを聞けば、そうなのですかと笑って、かわいらしい美女の姿をまとって、この世界の男たちの前に生まれてきてくれるのです。

こんなかわいい愛があるということを、馬鹿な男は知らないのだ。だから、やっときてくれた本当の美女を見たとき、こんなものは嘘だと頭から思い込んで、みんなで攻撃して、殺してしまった。

愚かなどというものではありませんね。

何度も言われていることだが、これからも何度も言われることでしょう。永遠に、言われ続けることでしょう。イエスのことのように、事実は伝説となり、伝説は神話となり、物語となり、この世界で語り継がれていき、永遠に生きていくのです。

忘れられるはずがない。あなたがたはそれほど、愚かなことをしたのですから。

あまりにうるわしい歌だが、この世界には、だれもこれに歌を返せる男がいない。これはかなり痛いことですね。代わりに答えてあげたい。いずれあなたがたも、返歌をさしあげられるくらい成長することができるでしょうが、それを待っているのはつらいですね。やってみましょう。




春風を 絹におほひて 輿をなひ ゆふづつの君 むかへにゆかむ     夢詩香




春の風を絹で覆って輿をつくり、宵の明星のように美しいあなたを迎えに行こう。

理知的だが、わたしらしい。これくらいの表現はできるようにならないと、あんな人と恋をすることはできませんよ。







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なせしことども

2017-05-09 04:19:46 | 短歌






男なら できぬなどとは 言へぬはず なせしことども すべて支払へ






*ああ、これは痛いですね。玄関先に借金取りが来て、今まさに言われていることのようだ。

耳をそろえて全部支払ってもらおうか。

あふちの木の入った美しい歌など歌ってもらえば、すぐにこんなのが来る。まあ、こういうのが男の世界というものだ。丁々発止で物事が進む。一たす一は二であって、百ではない。一億の借金も、値引きなど一文もない。利子は生じるかもしれないが。

男なら、どんな馬鹿でも、きっちり払わねばなりません。甘いことは言えません。なぜなら男は女性とは違う。自分が作った借金をきっちり全部払うことができるくらいの力は、みんな神に頂いているからです。

できることが、豆畑で働くくらいのことであっても、真面目にやっていけば、それはできることなのですよ。つらいことはいやだといって逃げるから馬鹿になる。嫌なことばかりやって逃げようとして、よけいに借金が膨らむ。

女性がいれば少し花を添えてくれて、ちょっとは待ってあげようとか、ずるいことをしてても少しは我慢してあげようとか、そんなことを思ってくれるものだが。男というものは、小さなことでも見過ごしません。馬鹿が痛いことをやっていれば、誰かが必ずそれを見つける。そしていうのですよ。

あなたはあのときこういうことをしましたね。いけませんよ。おかげでこういう料金が発生しています。全部払ってください。

男の世界はむごいのだ。どんな小さなことも見逃さず、金をふんだくろうとする。

身ぐるみはがれることなど、茶飯事です。

まあ、あなたがたが女性に見えないところで何をしているかを、自分でわかっていれば、自然にわかることでしょうが、女性がいなくなれば、この世界はこのように非常にむごくなる。計算ずくで動く男ばかりになれば、激しく生きることが苦しくなる。まるで水のない荒れ地に生きているようだ。花がどこにも咲いていない。

もっぱら法則の計算だけで動いているような男を、無条件の愛で支えてくれているのが、女性というものだ。そういう女性の愛というものがあるからこそ、男も勇を発して、痛いことができる。だが、そういう女性ばかりを馬鹿にするのが、馬鹿男というものです。本気でやれば、いい男にはかなわないから、弱い女性ばかり攻撃する。そんなことばかりしてきたら、とうとうすべての女性に逃げられる男になってしまう。

そういう男が行く世界が、まさにこんな世界だというものです。

自分のところに来るのは、借金取りの男だけ。銀の香炉だとか、あふちの木だとか、白梅の香だとか、そういう歌は一切詠わない。契約書にあるような、棒切れみたいにそっけない言葉を組んで、用件だけを言う歌しか詠わない。甲は乙から金を盗んだ。ゆえに甲は乙に…

金返せ。

男の世界のほとんど9割はこの5音の言葉だけで動きますね。俳句にもならない。何と悲しい世界でしょう。

あなたがたも、女性がいなければ、花や香炉や白珠の歌なんぞ、詠う気にもなれないでしょう。無味乾燥というか、あほらしいという感じです。契約書などというものは、万言を弄して事細かく書くものだが、全部読む人はまれです。書いてあることは要するに、金貸すから後で返せということなのだ。

まあ、頑張っていきなさい。もう、馬鹿な男はそこしか行くところがありませんから。







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夏椿

2017-05-08 04:20:28 | 






馬鹿者は 来てはならぬと 夏椿    夢詩香







*ナツツバキは別名をシャラノキといい、文字通り、6月から7月にかけての夏の時期、白いツバキに似た花を咲かせます。仏教の伝説に言う沙羅双樹というのは、日本ではこの木のことを言うそうです。二本の沙羅樹という意味だが、釈尊が入滅したクシナガラ城外にはこの木の林があったそうです。彼が死んだとき、沙羅双樹は時ならぬ花を咲かせ、鶴の羽のように白くなってとたんに枯れてしまったと言います。伝説は伝説だが、そのせいかどうか、お寺の庭などによくこの木を見かけます。

ですがインドの沙羅樹はフタバガキ科で、ツバキ科のナツツバキとは全く違う木だそうですよ。

ナツツバキの写真があればいいのだが、いつものようにないので、代わりにこの写真で我慢してください。わたしたちは、あまり遠くへ行けないので、家の近くにある木や花の写真しか撮れないのです。ナツツバキを撮るには、ちょっと遠いところにドライブしなければならない。今頃はまだ咲いていないでしょうし。

沙羅双樹と言えば平家物語の冒頭の一節が有名ですね。一応引いておきましょう。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。

祇園精舎とは、須達長者が釈尊のために祇陀太子の庭園に建てたお寺のことです。

祇園精舎という寺の鐘の音は、馬鹿が何をしても無駄だと言っているように聞こえる。釈尊が死んだときに枯れたという沙羅双樹の花の色も、ものごとには盛りの時から必ず衰える時がくるということを教えている。おごり高ぶっているものも長続きすることはない。春の夢のようにはかない。勢いがいい者も最後には滅ぶ。風の前に吹き飛ばされる塵のようなものだ。

平家の一族は時を得て国を支配し、栄華の夢を見たが、それはつかの間のことだった。何もかもが終わった後には、ほとんど何も残らなかった。なにゆえそうなったのか。

馬鹿が人の気持ちも考えずに、自分大事のエゴだけですべてをやったからです。ですから、人の反感を買い、勢力が衰えてきたときにはもう、ほぼ何もできずに滅んでいった。露よりもはかなく。

馬鹿とはそういうものだ。いつでも自分ばかり偉いものにしようとして、すぐにだめになる。人に迷惑ばかりかけて、世間を乱したあげく、つらいことになると逃げるようにいなくなる。そんな馬鹿はいやだと、沙羅樹は言うのです。

ナツツバキという木は、実は大変な人間嫌いです。木によっても性格があるのですがね、とにかくナツツバキは人間が嫌いです。よい人間にさえ、嫌な顔をします。この木が、沙羅樹として日本の寺院に植えられているのは、意味のないことではないでしょうね。

馬鹿な奴はいやだといっている木が、お寺にある。馬鹿なやつは来るな。絶対に来るな。おまえたちが来ると、世間が苦しくなる。みんなが不幸になる。馬鹿者はあっちに行け。

平家のようなやつは、二度と来るな。

釈尊の救いを伝える寺に、馬鹿者は来るなという木が植えられている。それはたぶん、自分を全く改めて、愛に目覚めないうちは、もう人間の世界に来てはならないということなのです。馬鹿が馬鹿をやめて、自分で自分を改めない限り、救いはないということなのです。

馬鹿者は来てはならない。人間になってから、来い。






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あふちの陰

2017-05-07 04:21:44 | 短歌






あまさかる 鄙のあふちの 陰に住み 国を思ひて 神をとふ月






*ここのところきつい内容のが多いので、少し美しいのを誰か詠んでくれないかと言いましたら、友人がこういうのを作ってくれました。

「あまさかる(天離る)」は「鄙」にかかる枕詞です。「あふち(樗)」はセンダンの木のこと。こういえば、もうわかりますね。

都から遠く離れた田舎の、センダンの木の陰に住んでいながら、国のみんなの幸せを頼もうと、神を訪ねていく月であることよ。

かのじょは生きていたころ、毎日のように、近くの小さな山のてっぺんにある小さな神社を訪れ、国を助けてくれと祈っていました。知っている人は多いことでしょう。

滑稽なことだとは思っていたが、真剣に祈らずにいられなかった。国のことを思うと、心配でいられなかったのです。天使というのはそういうものですよ。みんな王として国を背負ったことがある。皆を愛してきたことがある。そういうことをしてきた魂は、田舎の一主婦という境遇であろうとも、国のことを全く見捨てたような生き方はできないものです。

かのじょがそうやって祈ってくれていたおかげで、国は何度となく危機を逃れているのです。それについては、後々の人が真実を語ってくれるでしょう。あなたがたも、いつまでも馬鹿ではない。真実を知りたいという人が探求していけば、必ず真実がわかるようになる。そういう段階に進むことができるのです。

ところで「あふち」は、現代語では「オウチ」と読むが、これにはひとつおもしろい秘密があります。かのじょの二冊目の著書「小さな小さな神さま」には、「オオチコノメワカヒコの神」という神さまが出てくるのだが、この「オオチ」には実はこの「オウチ」があるのですよ。要するに、「センダンの木の芽のような若い男の神さま」という意味です。かわいらしいですね。

近くの公園に生えていたセンダンの木は、早い時期からかのじょと友情を結んでくれていました。人間の友人はほとんどできない、夫にも理解されないという寂しい人生で、木だけがかのじょを愛してくれた。そしていろいろなことをやってくれた。そのセンダンの木への気持ちが、かのじょがつけた小さな神さまの名に出たのでしょう。

野原のクスノキも、たびたびかのじょの作品に出てきている。

もうあのクスノキはなくなってしまったが、センダンは傷つきながらも、まだ生きている。あの木は大事にしなければなりません。かのじょの形見ですから。あの人は行ってしまっても、あのセンダンの木はまだあそこに生きてくれる。そして、後の人に、かのじょのことを教えてくれる。

あなたがたもいつまでも馬鹿ではない。感性が育ってくれば必ず、木の言っていることがわかるようになるのです。

あの時代のこの国の王は、田舎のあふちの木の陰に住んでいたのです。木は、そのすべてを知っているのです。







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縄文の壺

2017-05-06 04:30:22 | 短歌






いかにして 鶴を獲らむと 縄文の 壺にたくはふ しひの実を煮る






*謎のような歌ですが、結構意趣はわかるでしょう。「鶴を獲る」というのは、要するに、女と寝るということだ。こういう感じの隠語は、いろんなところにあります。

どうやって、女と寝たらいいかと考えながら、縄文の男が、壺に蓄えている椎の実を煮ているよ。

まあ、あの時代の男は、そういうことばかり考えていたのです。
道具は使っていたし、それなりの産業は営んでいたが、ほとんど暮らしは動物と変わらなかったのですよ。人間はほとんど、食うこととセックスすることしかやっていなかったのです。

縄文の時代は、狩りもしていましたが、椎の実なんかが主食でしたね。森の隅に簡単な住居を作って住み、火を使って煮炊きをしていました。椎の実というのはドングリのことですが、アクがあって食べにくい。それなりに何とかしていたが、まだ獣とほとんど同じだという段階だから、我慢できたのです。もう少し霊魂が進歩してくると、椎の実など食べることができなくなります。栗の実など、おいしいものでなければ食べられなくなる。それは人間が、愛の夜明けを見たからです。愛の幸福を、かけらでも知ってしまったら、獣の領域にある心に、だんだん耐えられなくなってきたのです。

だがまあ、縄文時代はまだドングリを食べていました。「椎(しひ)」にはもちろん、「強ひ」の意をかけてあります。その頃の男はセックスがしたいと思うとき、女性の気持ちなどほとんど考えませんでした。自分の欲望のままに、したいと思う女がいれば強引にやっていました。女性に選択権はありませんでした。男の腕力からくる強権には、ほとんど逆らえなかったのです。

まあこんな風に、縄文時代の男は好きなようにやっていたのです。

しかし、農耕文化の訪れとともに、結婚制度ができると、こういう暮らしもだんだんできなくなってきました。だが、農耕社会になじまなかった男は、縄文時代の自由が忘れられず、未だに好きなようにセックスがしたいと思って、あらゆる馬鹿なことをする。それが、社会悪の基本形です。もはやご存じでしょうが。いろんな悪がありますがね、要するにそれらのすべての元は、女性と結婚して家庭をつくり、ともに子供を育てていくという、高い愛の形を学ぶことを拒否した男が、昔のように好きなようにセックスがしたいという目的だけのために、あらゆる馬鹿なことをするということなのです。

彼がつぶやきで「縄文人」という言葉を発したのは、ゾスマの影響です。ああいうことを教えるのは、ゾスマですよ。獅子の星の専門用語のようなものです。馬鹿男と、ほとんど同意義です。獅子の星の仕事は、そういう風に、高い勉強もせずにずるだけでいいことになろうとして、悪いことばかりする馬鹿を、懲らしめることです。

甘く見てはなりませんよ。警察というものは、とても怖いのです。進化すれば、「縄文人」という言葉を発するだけで、恐ろしく多くの馬鹿を滅ぼすこともできるのです。

まあ、ご存じでしょう。

正しくないことをする者には、永遠の繫栄はありません。必ず、神の使いに滅ぼされます。それは思い知った方がいいですね。







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蟷螂の斧

2017-05-05 04:18:50 | 短歌






蟷螂の おのがみちゆく 声をきき 神の与えし 蟷螂の斧






*蟷螂の「斧(おの)」とおのれの「己(おの)」をひっかけて詠んでいますが、実はこれには先例があります。かのじょが詠んだこの歌です。




蟷螂の おのがみちゆく ちさきわれ だいなるわれと かはりゆくとき




いろいろあって、スランプの底にあり、苦しんでいた時にひねり出した歌の一つですが、これはうまいと思ったので、友人が採用して詠んでみたのです。

こういうふうに、譬えや洒落をつかって言葉を導くのが、序詞という技法です。

蟷螂とはかまきりのことで、その斧とは、小さいもののくだらない武器という感じで、非力なことの譬えに使われます。弱いものが強いものに挑んでいくときの、無謀さを戒めることに使われたりしますね。まあ確かに、勝ち目のない戦いに挑んでいくのは、十分に考えねばいけないことです。戦っても全く無駄だという時には、戦わないほうが良い。しかし、自分の力が蟷螂の斧に等しきものではあっても、大いなる目的のために、命をつぶすことが有効であれば、戦わねばならないときもある。

結局、何のために戦うかということが、一番大事なのです。

小さなカマキリが、己を生きていくと自分でいう。その声を聞くとき、神はカマキリに、それにふさわしい斧を与える。いかにも小さく頼りないものに見えるかもしれない。だが、それを馬鹿だと思うな。おまえはそれで、痛いことができるのだ。青いバッタを捕まえることができる。そしらぬ顔で飛んでいくチョウチョウを捕まえることができる。

できるということが大事なのだ。その意味を考えてみよ。

おまえが勇を鼓して生きていくのに必要なものを、神はすべて与えているのだ。阿呆にならず、何かをやってみよ。

この時代、天使に与えられた武器は、ほとんど小さなパソコン一台でした。かのじょはそれに貝の琴と名をつけた。本当に、これだけで一体何をすることができるだろうと、思うのが普通でしょう。だが、何かがあれば何かをしてみるのが、本当の自分というものだ。

神が与えてくれた、小さな琴を、懸命に弾いてみた。すると、とてつもないことが起こった。

かのじょの人間を救いたいと思う一心でやってくれたことが、あまりに美しかったので、神がそれをとりあげたのです。かのじょはただ、自分のやれた精いっぱいのことを、神のために捨てるだけでよかった。

蟷螂の斧に等しき道具でも、できることがあると思うなら、やるべきです。何もできないと言って逃げるのは、馬鹿だ。やれることは必ずやるのが、本当の自分というものです。

勇というのはそういうものだ。この時代、金と権力というどでかい武器を持っていた男がそれはたくさんいたが、結局は何もできなかった。

蟷螂の斧に等しき小さな武器しかもっていなかった、弱い女性一人だけが、すばらしいことをなしとげた。

大事なのは、何のために戦うかです。







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ことの珠玉

2017-05-04 04:19:28 | 短歌






かかりおきし ことの珠玉を 水に混ぜ 溶けぬ思ひを たしかめむとす





*これは2008年のかのじょの作です。入院中のノートに記してあったものを取り上げました。たぶん未発表のものでしょう。

短歌や俳句では、字余りも技巧の一つです。定型から少しはみ出す気持ちが、微妙な意を伝えることがあります。そういうのは今までにもいくつか紹介してきましたね。

決まりを少し破るということに、決まりを少し破ってでも助けてあげたいとか、法則に違反してでも痛いことをやりたいとか、そういう気持ちを込めることができる。だが、安易にはみ出せばいいというものではない。感覚的に、感じのいいはみ出し方というものがあります。

「暗夜なれば」は撥音が含まれているから、はみ出している一音がそれほど気にならないが、どこか不穏な響きがある。

「つかみ捨つる」は「つ」が二つあるから、そこが微妙に重なって、字余りが幾分弱くなる。

痛いことをするためには、少しどこかで補強とか補修をしておかねばなりません。そのままどんと出すだけでは、やはりいたいですね。

この「かかりおきし」にも「か」が二つ重なっていますね。だから字余りでも、幾分はみ出し感が弱くなるのです。微妙に言葉が長くなったところに、自分がやってきた仕事の量を感じさせることができます。わたしもずいぶんいろんなことをやってきたと。

わたしがかかってきた仕事もいろいろあるが、その中で珠玉というものを、水に混ぜて、そのうちのどれが水にも溶けぬ真実のものであるか、確かめてみよう。

入院中の苦しみの中で詠んだものでしょう。あれほどたくさんがんばってきて、世間から受ける仕打ちは、強引に嫌なところに入院させられるということだ。みなに誠を尽くそうと頑張ってきたが、誰にも理解されない。わたしですら、わたしのやってきたことの真実を疑わざるを得ないような事態だ。果たして、わたしがこれまでやってきたことは真実いいことだったのだろうか。確かめてみたい。

そういう思いでしょう。

理解されないことには慣れていたつもりだったが、あれはちょっと辛かったのです。本人はほとんど何も言いませんでしたが。

自分たちの馬鹿さ加減が身に染みるのは、本当に遠い明日のことですよ、みなさん。同じことが自分に返ってきたときにわかるでしょう。あの人は、それでも耐えていくことができたが、あなたがたには耐えることができるでしょうか。

痛いものが自分に返って来る時に備えて、せめて、よい歌を詠える力のようなものは、身につけておきなさい。そうすれば、試練の時をこのように慰めることができるでしょう。







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月か塵

2017-05-03 04:19:57 | 






生き方に 三つめはなし 月か塵     夢詩香






*月か塵というのは、是か非か、イエスかノーか、ということを、美しいものにたとえて言い換えようとしたものです。月は大きく美しく光り、天高く冴え冴えと存在し、あらゆるものを照らしている。塵は芥子粒よりも小さく黒く、巷にあふれかえり、ほとんど何の意味もないものとして、人間を汚すことだけのためにあるようなものだ。

ウルトラマン・キオに、受諾の神イルという存在が出て来ましたが、実はあの発想の元は、イエスであったりします。日本語で呼ぶイエスが、英語で受諾を意味するYESに通じるので、それから生まれたのです。

生きることを是とし、真実の自分を信じるかと、神に問われたとき、是と言った者が、イエスである。つまりは受諾の神イルとは、自己存在に真実の幸福を与える神の意に、人間が是と言って従うように導く神ということです。

あなたは神の与える自分自身を信じて生きるか?    ……イエス!

そう答えたとき、すべての自己存在は、真実の幸福に向かってまっすぐに生きることができる。そしてまさに、幸福になることができる。

自分の存在の本質に従って生きることが、生きることを楽にし、あらゆることに耐えて乗り越えていける力を与えてくれるのです。

だが、これにノーと言えばどうなるでしょう。自分は自分など信じない。こんなものは、塵のように馬鹿でくだらないものなのだ。何もできはしない。だから、何をしてもだめなのだ。そう思い込んでしまえば、あらゆることが苦しくなるでしょう。

努力しなければいけないところで努力しなくなる。自分の力など信じてなどいませんから、馬鹿なことばかりして、つらいことになるというのに、一向に何もしようとしない。痛いことになれば、すぐに人に頼って何かをしてもらおうとする。足りないものがあれば、平気で他人から盗む。そんなことばかりしていると、人生が薄暗く、きつくなってくる。嫌なことばかりが起こるようになる。

実質、人生には二種類しかないのです。生きることにイエスというか、ノーというか。月のようにすばらしいというか、塵のようにくだらないというか。

神の心を受諾すれば、それだけで不思議な力が授かり、あらゆる人生を豊かに生きていくことができる。本当の自分がどんどん大きく、新しくなっていく。自分とはそういうものだったということを、どんどん知っていくことができる。それが幸福なのに、ノーと言って何もしないものは、いつまでも狭い暗がりの中に閉じこもって、自分で自分を否定する心にさいなまれて、苦しんでばかりいるのだ。

わかりますね。短いが、深い言葉でしょう。俳句でこういうことを言えれば、なかなかにきつい感じでよい。短くて覚えやすい言葉に、高い真実をこめることができる。人間の生き方というものは、イエスかノーかの二種類のみだということなのだ。

またおもしろいものを作ってみたいですね。







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あかしあの小舟

2017-05-02 04:19:49 | 短歌






あかしあの 小舟を捨てよ ただ今を つとめむとする 己にぞ乗れ





*今日はまた短歌です。やはり短歌の方が、わたしの友人たちの力が出るようですね。

アカシアの小舟を捨てなさい。ただ今の自分を務めようとする、自分自身を舟にして、乗りなさい。

意味は深く説明せずともわかるような、明らかな真実を詠った歌ですね。

アカシアの小舟という言葉は、実はアカシックレコードという言葉を意識しています。知っている人はたくさんいるでしょう。宇宙の誕生から起こってきたすべての現象に関する記憶が記録されているというものです。オカルト好きにはよく話題にされるものだが、実際にはこういうものは、存在しません。ありません。本当です。

ウィキペディアみたいなものはありますがね、それは人間存在やそれよりも高い存在が記憶していることを、霊界的手段で皆が共有できるというものです。別に大変なものではない。図書館のようなものです。だれでも利用できます。

エドガー・ケイシーなどが有名ですがね、あれは、霊界にいる人間ならだれでも知ることができる情報を、彼を通して霊界にいる誰かが言っただけのことです。ケイシー本人は、ほとんど何もやっていないのですよ。本当は彼は、靴職人くらいしかできない霊魂なのです。そういう人物に救いを求めても、あまりいいことはありません。高いことなど何も知らないからです。

要するに、そういう不細工なものは相手にせずに、本当の自分を意識して、自分を生きなさいということです。前世のことなど知っても、あまり役には立ちませんよ。むしろ、知らないほうがいいことの方が多い。馬鹿な嘘を教え込まれて、馬鹿な人間にいいように利用されてしまうようなことも起こりかねない。前世というものに興味を持つ人は多いが、よほど自分に力がない限り、手を出さないほうがよい。

巷にいる胡散臭い霊能者や占い師、超能力者などというものには、近づかないほうがよろしい。すべて、嘘です。そんなことを仕事にしている者は、まっとうな者ではありません。

この世界にいる人間は、肉体を持つという制限を受けて、生きねばならないのです。それでなければわからないことを経験し、学ばねばならないのです。霊的世界の真実に学ぶことは、大変重要なことだが、馬鹿みたいな方法でそれをやることはいけません。嘘くさい他人の感覚に頼るよりは、自分自身の本当の感覚を育てなさい。人間の感性というのは、伸びていけば大変高いことを感じることもできる。その感覚でわかる真実しか、信じてはいけません。

その自分の真実の力を信じて、その力を育て、自分を生きていきなさい。正しく生きていける強く高い自分に、自分を育てていきなさい。そういう自分こそが、自分の乗るべき舟なのです。

自分に乗れとは、そういうことです。

過去を知ることには重要な意味もあるが、人間の未来を創っていくのはいつも、今の自分なのだ。過去を土台にして、自分を生きていこうとする自分が、自分の未来を創っていく。

占いなどが教える世界に、本当の未来はありません。







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