ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

高座のわき

2017-05-21 04:20:34 | 短歌





高座の わきにますぐの 麻をうゑ 国書をとぢる 白紐をよれ






*これは試練の天使の作品です。つぶやきの中で一度紹介されたものですから、覚えておられる方もいるでしょう。

「高座(たかくら)」とは、天皇の玉座のことです。「国書(こくしょ)」とは、まあ説明するまでもないでしょうが、国の元首がその国の名で出す外交文書のことです。

「麻をうゑ」の「うゑ」は「植ゑ」ではなく「生ゑ」にしたかったらしいのだが、それだと「はえ」と読まれる恐れがあるので、ひらがなにしたそうです。「とぢる」は「閉づ」ではなく「綴づ」です。「とづ」の連体形は本当は「とづる」だが、なんとなく彼はそうしたくなかったらしいです。

古臭くて硬くなるのがいやだったらしい。時には古語の文法に合わなくても、自分の感覚に気持ちいい表現をとるのがいいでしょう。詠んだ人が気持ちいいと思っている歌の方が、すんなりと入ってきます。それに今は、古語が日常語であった昔とは違いますから、かなり言語的な技術には、融通が利きます。確かに読んでみれば、「とづる」より「とぢる」とした方が、彼らしくて清々しい。

天皇の玉座のわきに、まっすぐな麻を植え、国家の元首が出すという国書を閉じる白い紐をよりなさい。

まあ、真意は解説しなくてもわかるでしょう。彼は政治家ですから。痛い意見を歌にして、誰かに伝えるのは、なかなかに粋ですばらしい。

こういう表現力を、ぜひに皆さんも身につけてもらいたい。事務的にそっけなく言うよりも、美しい隠喩で真意を伝えれば、人間の心だけでなく、魂に入り込む。そしてその人の人生そのものに、深い指針を与える。

歌とはそういうものだ。この歌を与えられた本人は、かなりこれが効いているはずですよ。

発想の流れは簡単だ。麻という言葉を使いたい。それを国の元首に結び付けたい。麻とは糸やひもや布を作るものだ。国家元首にかかわるもので紐を使うものと言えば、国書を綴じる紐くらいだろう。いいね。この線で詠ってみよう。

まあこんな感じでしょう。高座のわきという言葉にも、もろに日本の総理大臣ということばが隠れていますね。「ますぐ」という言葉にも、何かの意味がある。

難しいことはたくさんあるでしょう。だがこれをできないと言って断ることは、できません。そうわたしは言います。言えばもはや馬鹿になる。どんな苦難が待ち受けていても、馬鹿でないのなら、やらねばなりません。歌とはそういうものだ。

わかりますね。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君たまふ花

2017-05-20 04:21:08 | 短歌





星だにも 捨てはつる夜の 闇をゆく たよりともせむ 君たまふ花






*今日は古い作品からいきましょう。これはかのじょが旧ブログに発表したものです。確か「ふゑのあかぼし」の中に入っていましたね。あれはボッティチェリの絵とのコラボでやっていた企画でしたが、確かこの歌に添えられていたのは、レンミ荘の壁画ではなかったかと記憶しています。ある婦人が、三美神をつれたヴィーナスから花を贈られているという絵でした。

星さえもが見捨てはてたという闇の夜を生きてく、その頼りともしよう。あなたが下さった花を。

確かに、星さえもなく、何も見えない闇のような夜というのはあるものだ。どこかに行こうにも、暗闇ばかりでどっちに行けばいいのかわからない。何も見えない。何をすればいいのかもわからない。そんな自分が生きていくのに、頼りにできる花とはどんな花でしょう。そしてそれは誰がくれるものでしょう。

かのじょがこの歌を詠んだ発想の元は、かのボッティチェリの絵でしたが、生きることの頼りとしていた花というものは、孔子の言葉でした。論語を初めて読んだとき、あまりに自分の生き方に溶けるように入って来るので、あの人は自然にそれを頼りとして生きていったのです。孔子もまた、昔の聖賢の生き方を見本として生きていたが、親や神のように慕い、信じることができる存在がいるということは、実にうれしいことだ。ひとりではないと感じる。

今の世の中は、何もかもがさかさまになっている。セックスだけを目的に女あさりをしているような男の生き方を肯定する、馬鹿みたいな屁理屈が化け物のように横行している。こんな世界で、自分を信じてただひとりでも正しく生きていくことは本当に難しい。だが、それ以外に生きていくことしかできない自分を生きていくとき、頼りにできる花のように美しいものがあれば、ずっと強く生きていくことができる。

わたしも、そういう花を、この世界に咲かせたいものだ。後の人々が、闇の夜を生きていくために頼りとできる、美しい花々を。あの人はそう思って、この歌を詠んだのです。

きっとそうなるでしょう。

あの人の残してくれたたくさんの言葉は、きっと後の人が生きる頼りとできる花となるでしょう。正しいことをひたすら信じ、まっすぐに生きた人ですから。

激しく汚い愚弄の嵐が吹き荒れる闇の中を、ひたすらに正しいことを信じてまっすぐに生きてきた。女だからと言ってそれをつぶしてしまえば、人間は汚いものに落ちすぎる。

阿呆でなければ、あなたの咲かせた花を見に来ずにはいられまい。




白玉の わが子のすゑを おもひては 花の香りを 東風に流せり     夢詩香




「東風」は、「こち」でなく、「あゆ」と読んでください。上代の北陸方言だそうですが、「あい」に通じて、よい。風にもいろいろな名前があります。「白玉の」は「わが子」にかかる枕詞です。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月の庭木戸

2017-05-19 04:20:43 | 短歌





玉のごと ため息を積み 霧雨の むかふにぞ見る 月の庭木戸






*昨日は、雨のことなど書きましたので、今日はこういう歌をとりあげてみました。「霧雨(きりさめ)」は、文字通り、霧のようにきわめて細かい雨のことです。糠雨ともいう。

かのじょが若い頃に構想していた物語に、「霧雨遊園地」というのがありました。残念ながら構想のみで作品にはならなかったのですが、おもしろい設定だけは覚えています。

霧雨の降る日には、不思議な遊園地に行ける入り口が開くというのです。一筋の特別な雨が、この世界に線を描いて降るとき、その線に触れると、その遊園地への入り口が開くのです。

物語の構想では、ある少年がその入り口を抜けて、不思議な遊園地に入っていき、そこで不思議な子供にあって遊ぶのです。おもしろい子供で、わがままでぶしつけだが、傷ついた心を抱えていて、憎めないようなかわいいところがあるという感じでした。いろいろと遊んでいるうちに、主人公の少年は、その子が、反抗していた自分の父親の、小さい頃の姿であることを知るのです。

霧雨遊園地で、父と子が、同じくらいの少年になって遊んでいるうちに、互いの心を深く理解しあうという話でした。

かのじょがこれを書くことができなかったのは、モデルにしている自分の父親が、理解しあえるほどに成長した魂ではなかったからです。構想は起こしたが、話を追いかけても、どうしても自分の父親と理解しあえる結末を思い描けなかったのです。

ですからこのアイデアは、書かれないままお蔵入りとなりました。だが、そのまま忘れ去るには惜しいので、ここで書いてみました。

玉のようなため息を積み重ね、霧雨の向こうに見ている。わたしの本当の故郷である月の国の、我が家に通じる庭の木戸を。

この親の子として生まれてはきたが、血のつながりさえ半分疑うほど、違うことを感じていました。かのじょは確かに父親の子なのだが、見ていると、遺伝をさえ感じない。全く関係のない他人だと言われても、すんなりと信じてしまいそうだ。

わたしたちは、人間とは違う存在ですから、どんな親から生まれても、だいたいこんなことを感じます。どうしても、なじめないものを感じる。そしていつしか、自分は全く違うところから来た、人間とは別のものだと感じるようになってくる。

霧雨遊園地のようなところへ行っても、わたしはあの子と遊ぶことはできないだろう。何かが違うと感じて、通りすぎてしまうだろう。そして、本当の故郷にある我が家の庭木戸を探すだろう。そこに帰れるものなら帰ってしまいたいと思うだろう。

だが、帰るわけにはいかない。自分にはやらねばならないことがあるから。

霧雨の向こうに異界への入り口があるということを想像したとき、あの人は故郷への入り口を垣間見たのです。ですから、あの物語を、あれ以上追いかけることはできなかったのです。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小夜時雨

2017-05-18 04:20:51 | その他





赤子抱き ひとり聞き入る 小夜時雨     夢詩香






*相変わらず季節を無視しています。「時雨(しぐれ)」は晩秋から初冬にかけて断続的に降る雨のことです。「小夜時雨(さよしぐれ)」はもちろん、夜に振る時雨のこと。一応冬の季語らしいですよ。

雨の多いこの国には、いろんな雨の名前がありますね。陰暦5月ごろに降る雨のことは「五月雨(さみだれ)」という。春に降るのは「春雨」、秋に降るのは「秋雨」、「氷雨(ひさめ」は雹や霰のことです。「霙(みぞれ)」は雪交じりの雨のこと。「霧雨(きりさめ)」、「小糠雨(こぬかあめ)」、春先に雨が続くと「菜種梅雨(なたねづゆ)」。「夕立ち」、「にわか雨」、「狐の嫁入り」、「雷雨」、「驟雨」、「涙雨」。意味はそれぞれに調べてください。

かのじょの最初の子は、10月の半ばに生まれました。秋ですね。最初の赤子育てはとても大変でした。それは、人生で初めての子供ですから、まだ右も左もわからない。育児書を見ながらなんとかやっていましたが、実際の子供は、全然育児書に書いてあるようなことはしてくれませんでした。

小さなアパートの一室で、ほとんど母親一人だけの子育てです。父親は仕事ばかりであまり協力してくれないし、子供は夜泣きして、ほとんど眠れない日が何日も続きました。心細いなどというものではない。かのじょには実母はいませんでしたから、助けてくれる人などほとんどいない。

そんな日の一こまを描いてみたのが、冒頭の句です。むずかる赤子を抱きながら、外に降っている時雨の音を聞いている。自分の子は自分で育てねばならない。誰にも助けてもらえないのだが、誰かに助けてもらいたいという心が、耳の感覚を外に向かわせている。

けれど誰もいるはずもありませんから、結局心は自分に帰って来る。思い通りにならない赤子育てに、さすがのかのじょもこの頃はつらい思いをしました。

でも子供を愛していましたから、一生懸命に育てていた。おむつを替え、お風呂に入れ、乳を飲ませ、添い寝して眠らせた。ほかのことはほとんどできません。家が散らかっていてもなかなか掃除もできません。食器洗いや洗濯さえままならない。赤子育てというのは、それまでの自分がいつの間にかまとっていた常識というものを、ものの見事に壊してくれます。どんどん自分を壊して、赤子に合わせていかねば、赤子など育てることはできません。

母親というものは、こういう経験を通して、自分を人に合わせるということを身につけていくものでしょう。

子供を産むと乳が出る女の体というものも不思議だ。それに子供が夢中で吸い付いてくるのも不思議だ。自分でこうしたわけでもないのに、自然に決まっている。そしてうまくいく。自分の乳を吸って、大きくなっていく赤子を見ながら、あの人はたびたび感動していました。

何もかも神がやってくださっているのだ。それでなければ、こんなすごいことができるわけがない。

そうやって育てた子も大きくなって、大人になり、いろいろな思いを味わっている。仕事はしていたが、すぐにやめた。今は親に背いて、ほとんど部屋に閉じこもっている。背丈の大きな男になってくれたが、横顔がかのじょに似ている。

わたしたちが共有しているこの存在の中には、あの子への愛がたっぷり残っている。どうにかしてあげなければと、わたしも思うのです。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが故郷

2017-05-17 04:35:15 | 短歌





なのはなの 光したたる 野辺に伏し わが故郷は かくのごときか






*なのはなの歌ですので、一応なのはなの写真をあげましょう。これはかのじょが愛していた野原に毎年咲いてくれるなのはなです。

この記事が発表されるころにはもうなのはなは終わっているでしょうが、実はこれを書いている今は、そろそろ巷で咲き始めるという頃合いです。梅は咲いているが、桜はまだです。ホトケノザはもうとうに咲いているが、オランダミミナグサはやっと咲き始めたころだ。季節の変化というものは嬉しい。誰かの誠が必ず表現されている。まじめに自分をやってくれる魂がそれはたくさんいるから、毎年きちきちと、自分の季節に自分の花を咲かせてくれるのです。

桜の花や、菜の花が満開の頃は、まるで世界が夢幻に包まれたようになりますね。これが本当に、苦しいことばかりがある人間社会と地続きなのかと、疑いたくなるような風景が広がります。わたしたちもよく、そういう景色の中にいては思うのだ。わたしの魂の本当の故郷は、このようなものなのだろうかと。

わたしたちは、ここからはとても遠いところからきています。この世界で肉体を持って生きている間は、故郷のことなど忘れ去っているが、どこかにいつも、何かが違うという意識を持っている。ここは自分の世界ではないのではないかという、おぼろげな疑惑に、いつも付きまとわれているのです。

その感覚は正しい。いろいろなことがありますがね、生きて人間の中に住んでいると、いつも自分だけが周りと違うことを感じている。子供のころから慣れ親しんでいる風景にさえ、どこか違和感がある。

だが、なのはなの咲き乱れる野の中にいると、不思議な安心感を感じることがある。それはなぜか。教えてあげますよ。わたしたちの本当の故郷に、とても似たところがあるからです。

忘れ去っていても、どこかで覚えているのだ。だから、あの人はなのはなの咲く野を見ると、引き込まれるように入っていったのだ。

わがふるさとはかくのごときか。

わたしたちは、この人生で使命を終えると故郷に帰る。そして、再びの使命を負えば、またここにやってくる。だが、あの人だけは。

なのはなの光がしたたる野に、溶けていったかのように、もう帰っては来ないのです。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しろかねの餅

2017-05-16 04:24:56 | 短歌






しろかねの 餅になづなの 色を添へ 天つ日を知る 人にすすめむ






*昨日が少しあれでしたので、今日はできるだけきれいな歌をと思い、詠んでもらいました。

「なづな」は「薺(なずな)」ですね、解説せずともわかるでしょうが、一応確かめるのが勉強というものです。「天つ日」とはもちろん太陽のこと。「つ」は上代の格助詞で、「の」と同じ意味です。「国つ神」とか「沖つ白波」とか言いますね。「わたつみ」は「海(わた)つ霊(み)」で、海の神という意味です。

銀の餅に、なずなの花の色を添え、天つ日の真実を知る人にすすめよう。どうか食べてくださいと。

しろかねの餅というのは、かのじょの中に蓄えられた教養のことです。かのじょを表す表現の中に月がありますから、その属性である銀も、かのじょを表します。文字数の制限のある歌には、短い言葉にたっぷりと意味を染み込ませるのが肝要ですね。

「なずなの色を添え」とあるが、本来なずなは白い花で、添えられる色はありませんね。色を添えると言えば、赤や青や黄色の鮮やかな色をした花や草を添えるものだ。だのになぜ、白いなずなに色を添えさせるのか。想像してみてください。なかなかに面白い意が生じるでしょう。

要するに、他意はない。真心のみですから、どうぞ受け取ってくださいという意味になるのです。

この時代、たくさんの天使がこの世界に産まれてきていましたが、高い教育を得られたものはほとんどいませんでした。今の教育制度では、天使が望むようなことを教えてくれるところが、ほとんどないのです。わたしたちが求める知識は、学校ではあまり教えてくれないのですよ。ですから、天使や、人間の高い人たちは、学校以外のところで、いろいろと知識を吸収するしかない。それでも何とかなることはあるが、やはり限界はある。

だが、かのじょだけはこの時代、幸運にも大学に進むことができました。生来の勉強好きの性質もあって、学校を卒業してからも、いろいろ勉強してくれました。読書の量もことのほか多かった。ゆえにわたしたちが今得ているかのじょの教養の蔵には、それは豊かなものがあるのです。

これを死蔵しておくだけではもったいない。と、わたしは考える。ですからこのブログでは、かのじょが勉強してくれたおかげでたまっている教養を、全放出しようとしています。中国の故事から、ギリシャやヘブライの神話、仏教説話から、古代エジプトの歴史、はては天文学から西洋美術史まで、かのじょが蓄えてくれた教養は全部出すつもりです。

これを、高い教育を受けることができなかったほかの天使に、活用してほしいのです。

わたしたちは助け合う。自分の力を出し合う。恐れ多いことではない。自分もまた、やれることを友達のためにやりますから。阿呆になるほど情熱的に、ただ愛のみのためにやることができますから。

こういう時代ですから、できることはすべてやらねばなりません。この存在にできることはすべてやらねばなりません。それがどういうことになっていくかは、後になってみればわかることだ。今はただ、目の前にある材料を使ってやれることをやるだけです。

あなたがたも、結構面白いでしょう。生半可な大学の先生が言っていることより、ずっと深いし、おもしろいですよ。彼ではありませんが、明日もまた、やってあげましょう。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬鹿な男

2017-05-15 04:21:51 | 短歌






男気を 糞に落として 恥を噛み 馬鹿な男は 涙も憎し






*「糞(くそ)」という言葉を含む歌は採用しないことにしていたのですが、これはおもしろいと思って、取り上げました。第3館の糞の歌の詠み手とは違う人ですよ。あちらの歌を詠んだ人は、ちょっときつい人です。まあ時にはわたしたちも、若干品のないことをすることもできるのです。

「ゆばり」とか「ゆまり」は小便のことだが、語感がそれなりにいいので使いやすいですね。だが、「糞」はかなり難しいです。要するに、汚いものや賤しい者の中でも、はなはだしく痛いものだ。人間誰しも糞をひるが、出したら二度と振り向かない。触りたいなどと思うものはまれだ。野糞などを踏んでしまうようなことがあったら、それをひった奴を心底憎む。糞は糞らしく厠か畑にでもいればいいものを、時々とんでもないところにいる。

人間が最も嫌がる汚いもの、という意味で、糞ということばは実に有効な働きをしてくれます。

男気というものを、糞のように汚いものにしてしまうほど、嫌なことをして、恥ずかしいなどというものではないことになって、馬鹿男はまだ悔いることさえできない。涙が出てくることさえ憎いのは、自分の馬鹿さ加減を認めるのが絶対に嫌だからだ。

糞という言葉には、いらぬもの、汚いもの、もう役に立たないものと、とにかく嫌な意味がとことん入っていますから、男気を糞に落としたということは、本来勇猛果敢で明るく正しくさわやかに生きるはずの男というものを、嫌なことばかりする暗くて汚いものにしてしまったということです。それほど馬鹿なことをしてしまった。腐るなんていうものではない。人間社会を食ってだめにするばかりの、ほとんど嫌なことしかできない馬鹿なものにしてしまった。

そういうものに自分をしてしまった男は、それがあまりにもつらいものですから、なかなかそれを認めることができない。どうにかして、無理にでも、自分の方を正しくできないかと考えるのです。強引に理屈を曲げて、ものすごく馬鹿なことをしてでも、無理矢理自分をかっこいいものにしなければ、恥ずかしすぎる。

自分のやったことが、あまりにもひどいからだ。

一度糞になりきった男というものを、立て直すのは非常に難しいですね。はっきり言って、一旦男以外のものに成り下がった方がよい。無理に男をやろうとすれば、もはや痛いものになりきってしまう。男でも女でもない、痛いものになって、そこからやり直し、もう一度男になりなおした方がいいでしょう。

男ではないということをやりつくして、まだ自分は男だなどと言おうものなら、永遠に女性に去られてしまう。男も嫌な顔をして逃げます。誰にも相手にされません。それほど、男というものはきついものなのだ。糞に落としてはならない。

男を糞に落とすくらいなら、死んだ方がましだというくらいでなければなりません。




芋虫の 糞のごとくに 見ゆる身に 落ちて都の 糞をひろはむ     夢詩香




芋虫というものは、糞に形が似ているものだが、そういうものに自分を落として、都に落ちている糞を拾おう。

糞が重なりましたね。明日はきれいにいきましょう。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017-05-14 04:19:26 | 短歌






風を聞く 楠はおほのの 角に立ち 貝の琴負ふ なよたけを待つ






*先日、あふち(センダン)の歌を詠ってもらったので、楠の木の歌も誰か詠んでくれないかと頼みましたら、友人がこういうものを作ってくれました。

「おほの」は「大野」、広大な野原のことです。かのじょが慣れ親しんだ野原は、大野というほどではなかったが、わたしたちの心の中では、それほど広いと感じるものでした。いたいけな心を持つ人が、かろうじて生きていけるために必要なものを、見えない存在がたくさん、あの野原に持って来ていたからです。

「角」は「かど」と読んでください。「なよたけ」はもちろん、かぐや姫に擬したかのじょのことです。

風の声を聞く楠の木は、広い野原の隅に一人立ち、愛を語る貝の琴を背負っている、あの月の姫のような美しい人を待っている。

「風をきく」というところに、楠の木の孤独を感じますね。森の木立の中にいる楠の木なら、周りにいる木の声を聞くでしょう。だがあの楠の木の周りには、そんな木はいない。

野原の隅に立っていたあの楠の木のことを覚えている人は多いことでしょう。あの人にとっては一番の友達でした。野の隅に一人でぽつんと立っている姿が、遠い故郷を離れてひとりこんなところにいる自分と重なって見えたのです。犬を散歩させながら、毎日のようにあの楠の木を訪ねていた。楠の木もいつしか、かのじょを深く愛するようになっていました。

かのじょが毎日訪ねてきてくれて、声をかけてくれるのを、楽しみに待ってくれるようになった。

だが、あの楠の木はもうない。信じられないかもしれませんがね、かのじょが楠の木のところにばかり行くのに嫉妬した馬鹿男が、伐ってしまったのです。本当ですよ。嘘だと思うなら、あの野原に行って、周りの草花に聞いてみるがよい。あなたがたもいつまでも馬鹿ではない。感覚がすぐれて進んでくれば、人間がこれまで闇に葬ってきた真実を、いくらでも掘り起こすことができるのです。

馬鹿な男は、嘘が何にでも通用すると思っているが、それが浅はかなことだと気づいた時には、あまりにも大変なことになっている。いつまでもぐずぐずとして勉強をしないからそういうことになるのだが、意地を張っていまだに何もしようとしない。できるだけ時間を稼いで、馬鹿の方が偉いのだにするための活動をまた始めようと考えている。もうだめだというのに、まだそういう暗闇から出て来れない。

男の嘘というものは、あまりに大きいのですよ。自分の存在そのものを、他人とすり替えるからです。自分の自分をやらず、他人から盗んだ自分ばかり生きようとする。それで、たいそう美しい女を欲しがる。だが、馬鹿男にできることと言えば、かのじょが愛する木に嫉妬して、かなわぬ思いの苦しさをその木にぶつけることくらいなのだ。

声をかけるどころか、近寄ることすらできない。

あの楠の木がなくなってしまったことと、あの野原が痛いことになってしまったことは、かのじょが死んでしまったことと、無関係ではありません。傷ついた魂をかかえていたあの人にとって、かろうじて深い愛を感じられる場所だった。魂が呼吸できる場所だった。

阿呆はそういう場所を壊すことによって、かのじょの命を縮めてしまったのです。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おにここめ

2017-05-13 04:20:00 | その他






流れきて つひにむかふる おにここめ     夢詩香






*俳句が続きます。これはだいぶ前に詠んだものですね。わたしがこのブログを始めたころ、数日で百句あまりを詠んだことがありますが、これはその一つです。わたしたちはこういうことが普通にできます。実を言うと、この原稿を書いているのも、2月4日です。

ゾスマの霧の風景も、ブログで3分の1くらいを発表したころには、もう全部書き終わっていました。ことさらには言いませんでしたがね。霧の風景をあなたがたが読み終わったころには、アルヤが幻の少女たちを八分くらいまで仕上げていました。

かのじょが生きていた頃も、これくらいのことはしていたでしょう。月の世の物語も、毎日発表していましたね。またあのすばらしい日記も、毎日書いていましたね。こんなことくらい当然だと思っていたのか、平気で馬鹿にしていましたが、同じことができますか。やれるものなら、やってごらんなさい。

毎日やるということはかろうじて真似できても、あそこまで水準の高い内容のものが書けますか。はっきり言って無理でしょう。言っておきますが、かのじょのあの仕事を馬鹿にした人は、いずれ同じことをやらねばならないという、法則上の結果が生じています。人を馬鹿にすると、よくそんなことになるのです。

「おにここめ」の「ここめ」は妖怪のことです。ですから「おにここめ」というのは非常に醜くて恐ろしい鬼のことです。まあ句の意は、馬鹿がいろんな嫌なことをしてきて、とうとう妖怪のように恐ろしい運命がやってきたという意味です。

阿呆は何もわかっていませんから、平気で人を馬鹿にしていじめるのですよ。自分の力というものがわかっていない。ですから、やったことが自分に返ってきたとき、自分の力ではどうしようもない運命が降りかかって来たりするのです。

他人が軽々とやっているからと言って、それを簡単なことだと思ってはいけません。わたしたちはこんなことができるようになるまで、それはそれは長い間修行してきたのです。わたしたちは、あなたがたとは、積み重ねてきた年月が違う。それも、ものすごい差なのです。あなたがたがまだ動物だったころ、わたしたちはもうすでに相当な高い存在でした。嫌になる現実かもしれませんが、自己存在にとって、霊魂としての年齢というものは、越えられない壁なのです。どうしてもみな、自分より先に生まれた存在には、勝てないのです。

ここは十分にわかっていた方がよろしい。それでないとまた、馬鹿な失敗をします。

馬鹿は自分の浅知恵で理解できる世界がすべてだと思っていますから、自分以外の人間がみんな馬鹿に見えるのです。わかっていないのは自分の方だということがわからない。だから平気で痛いことをして、みんなを馬鹿にするのだが、それが返ってきたときになってようやく、自分には何もできないということを思い知る。それが馬鹿というもの。

あなたがたも今、かのじょを馬鹿にした反動が自分に出てきている。人を馬鹿にすればこんなことになるということが、だいぶわかって来たでしょう。とうとう鬼ここめがやってきた。

もうすでに遅いと言う人もたくさんいますが、この経験をよい教訓とできる人は、もう二度と、人を馬鹿にするようなことをしてはなりません。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネフェルティティ

2017-05-12 04:20:13 | その他






いにしへの 奢りを悔いよ ネフェルティティ     夢詩香






*久しぶりに俳句です。かなり奇抜な句ですね。ネフェルティティは古代エジプトの美女です。アマルナ革命を実行したファラオ、アクエンアテンの正妃でした。その美しさを伝える胸像が、今に残っています。確か本館の、虹のコレクションで一度紹介されていましたね。

アマルナ革命は、アメン神を中心とした多神教から、アテン神のみを唯一神として信仰する一神教に改革するという、おもしろい宗教革命でした。この革命にはアクエンアテンの理想がふんだんに盛り込まれていたのだが、彼の高い心を人々は理解できず、様々な謀略を行って革命を汚し、革命は一世代で倒れ、アクエンアテンが死ぬと、人々は早々にアテン神を捨て、また古くからのアメン信仰に戻ったのです。愛という言葉がなかった当時、アクエンアテンが提示したアテン神そのものが、愛の象徴でした。あらゆるものがそこから生じ、その恵みを受けているという理想の美を持つ愛の観念を、アクエンアテンはアテン神によってこの世界に表現しようとしたのだが。

残念ながら、当時の人間にその真意が理解されるはずもない。改革はファラオの意志を無視して曲がり放題に曲がり、アクエンアテンは誤解の中で死んでいったのです。

今は「愛」という言葉があるから、あなたがたにもわかりやすいが、昔は愛を表す言葉はありませんでした。ですから、この世界に来ていた高い存在は、いつでも愛をこの世界に表現するために、あらゆる苦労をしていたのです。孔子が言った「仁」という言葉も、その試みの一つだ。

ところで、ネフェルティティという名は、「美しいものが訪れた」という意味だそうです。その名の通り、ネフェルティティはとても美しい女性だった。その名を誰がつけたのかは知らないが、かのじょがファラオの元を訪れたとき、誰かがそう言ったのかもしれませんね。愛という理想の美が、この世界に訪れた。そういう意味にもとれる。アクエンアテンは愛の幸福がこの世界に降りてくることを願っていた。そのことを教える一つの現象であるかもしれません。

ところが、このネフェルティティはこの時はとても美しい女性だったのだが、実はこののちにそれを鼻にかけて少し痛いことをしてしまい、今はあまり美しくないのですよ。霊魂の経歴というものを調べれば、そういうことはわかるのです。
彼女の魂は未だに迷っている。一度でもすばらしい美女になったことがある女性は、そのときに味わった幸福が忘れられませんから、とてもプライドが高い。それなのに自分が美女ではありませんから、今はとても苦しんでいる。

女性にはよくある試練です。だからわたしは十分に教えてあげたい。

美しかったときの奢りの心を捨てなさい。そして、自らおかめになって自分を下げ、人々のために端女のようになって働きなさい。そうすれば、あなたはもっと美しくなれる。

アクエンアテンはこの世界に来ていた天使の一人でした。ネフェルティティをとても愛していた。二人で革命の理想のために生きていた。あの頃のあなたが美しかったのは、王を愛してその理想のために生きていたからだ。愛していたから、美しかったのだ。

あの頃の本当の心に戻り、やり直していきましょう。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする