比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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彩の国・・・コロボックル人の棲み処だったのか・・・「吉見の百穴」・・・横穴墓群

2016-10-28 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田・・・稲倉の棚田の古墳に関連して・・・
彩の国吉見町にある古墳時代末期の横穴式墓群「吉見の百穴」(ひゃくあな)です。

埼玉県東松山市と吉見町の境界を流れる荒川水系市野川、その左岸の吉見町北吉見地籍。
市野川の河岸段丘、凝灰岩質砂岩が露頭した崖地に不思議な横穴が・・・現在219穴。

幻想的な風景・・・コカコーラやソフトクリームの看板が無ければ・・・
空色のベストのかたはボランティアガイドさんかな?

中央に墓穴よりひと回り大きい洞窟があります。戦時中に掘削された軍事工場跡です・・・その話は後程。
※撮影日は10月24日、LUMIX DMC-G7。

※江戸時代の文献にも「吉見の百穴」が出てくるそうです。「ひゃくあな」か「ひゃっけつ」か・・・どうでもいいことですが地元の人は古くから「ひゃくあな」といってるそうです。
※弥生式土器の発見で有名な坪井正五郎博士が東京帝国大学の大学院生のころ地元の人の協力を得て1887年発掘調査、237の横穴を露頭させたといわれますが詳細な記録・写真が無いようです。坪井博士はこの横穴をコロボックル(アイヌ伝承に出てくる小人)の居住跡という説を発表、何とも幻想的でロマンあふれる説でしたが、この説は論議を呼び、大正時代の中ごろに横穴式墓群というのが定説になりました。1923年国指定史跡。
※大和王朝時代の600年前後から藤原京時代の700年前後までに造られたと推定されています。前方後円墳、円墳、方墳が姿を消した古墳時代の終り頃。このあたりの河岸段丘地は凝灰岩質砂岩が多く掘削が容易であるのが造られた理由であろうか。
※誰がこの方式を導入したのであろうか、大陸からの渡来人か、被葬者はどんな人たちか。謎は深まる。


※東京帝国大学の学生であった正岡子規が1891年11月、蕨、忍、熊谷、東松山、川越、所沢、田無と2泊3日の「武蔵野旅行」をした際、吉見百穴を尋ねています。

神の代は かくやありけん 冬籠       子規


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
吉見の百穴 (ころん)
2016-10-28 14:32:51
岩に穴の古墳これは圧倒されますね。
当時先進的な生活あったのでしょうか?
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Unknown (Unknown)
2016-10-28 17:21:07
棚田シリーズから古墳シリーズ!いろいろ勉強になります!
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東松山駅からすぐ (ころんさんへ・・・ヒキノ)
2016-10-28 18:52:43
春、このそばの市野川の堤防に咲く桜が見事です。

森林公園・・・大宮から川越に出て、東上線で森林公園まで、そこからタクシーかバスですぐです。
桜の時期が見事ですよ。
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コメントありがとうございます。 (unknownさんへ・・・ヒキノ)
2016-10-28 18:54:31
こちらの遊び心ですから気楽にみてください。
コメントありがとうございました。
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蜂の巣 (こきおばさん)
2016-10-29 06:17:54
マァ面白い。こんな所があるんですね。
どんな人が眠っていたのでしょう。

いろんな場所を紹介して頂き、いろんなことを教えて頂き、有難うございます。まだまだ知らないことばかりです。
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7世紀の横穴墓群ですが (こきおばさんへ・・・ヒキノ)
2016-10-30 19:02:33
お墓っぽくなくて何かおとぎの世界のような風景です。

真ん中の大きな穴は戦争中、中島飛行機大宮工場が造った洞窟工場です。大勢の朝鮮人労働者を使って掘りました。完成するまでに戦争は負けました。何とも情けない話です。
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