比企の丘

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武州畠山郷・・・畠山重忠公の墓所を尋ねた

2009-11-16 | 古城・城址・陣屋・館跡
11月9日武州川本の白鳥飛来地に行った帰り、畠山重忠公墓所に寄りました。

畠山重忠(1164~1205年)・・・武州男衾郡畠山郷(現深谷市)を領する中世の武将。桓武天皇平氏の一族、源氏の家人であったが父の時代の平家全盛期は平氏についていた。この時代の領主は一所を守るために懸命に風見鶏を決め込んだのであろう。源頼朝が勢いを得ると頼朝の下に。有力な御家人(近世の旗本、譜代大名みたいなもの)になります。

畠山史跡公園・・・神社のように見えますが、重忠公の館跡といわれ墓所があります。

源頼朝の時代、数々の武功をあげますが、重忠の子重保が北条執権の時政の後妻の牧の方の子平賀朝雅と酒席で争い、これがもとで重保は誅殺、重忠は「鎌倉に異変あり、至急来られたし」という呼び出しを受け、いまのようにスマホもメールもない時代なので確認することもなく武州嵐山菅谷館から130騎で出発、神奈川の二俣川で待ち構えた北条10万の大軍に討ち取られます。いまなら武装蜂起騒乱罪の嫌疑というわけですか。騒ぎのもとになった牧の方はそのご追放、平賀朝雅も殺されます。ということは畠山重忠の乱は何だったのか。
源頼朝没後、頼朝以来の有力御家人は次々に謀殺されていきます。いまの時代でも権力交替劇のあとは先代の腹心部下は閑職に、有力競争者は消せというのが政界でも企業でも常道です。

墓所は覆殿になっています。中を覗くと五輪塔の墓が7基。説明はないが中央が重忠公、ほかはともに戦死した一族郎党か。五輪揃っていないものも。長い年月で損傷、紛失したのか。

一の谷の戦い・・・鵯越の逆落とし・・・重忠は愛馬を気遣って背負って降りたという。怪力だ
1184年源平の戦いのターニングポイント。神戸市須磨区の一の谷・・・平氏追討の搦手軍(別働隊みたいなもの)の総大将源義経に従った畠山重忠は須磨の浦公園裏手の鉄拐山から逆落としという奇襲に加わった・・・といわれています。


畠山重忠・・・わたしが武州比企の人になるまで知らなかった人です。嵐山町の山百合の自生地で有名な菅谷館跡は畠山重忠の居館だったところといわれます。畠山重忠の墓所がほかにある。地名も畠山だ。ということで訪れました。地元の人は重忠公」と呼んで慕っているそうです。
アクセス⦆深谷市畠山510-2。国道140号線(旧秩父往還)重忠橋(北)交差点を南へ。県道81号線(熊谷寄居線)の重忠公園入口交差点を北へ。

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