中山道長久保宿です。正確には長窪宿です。長久保と呼んだのは江戸幕府が終わり明治の代になってからです。
「是より長久保宿」
中山道芦田宿(標高720m)から笠取峠(標高850m)を越えて国道を下りていくと国道の右側にこんな標柱が見えます(標高729m)。ここから長久保宿の旧道に入ります。
江戸から数えて27番目の宿場町。名前は知られていませんが、旅籠数は43軒、たいへん栄えたようです。
つまり京・江戸を結ぶ中山道。諏訪と北信濃を結ぶ大門街道(諏訪道)。芦田宿から分れて大内道(現254号線)が長窪古町に。大内道はさらに武石峠から松本に通じていました。長久保宿は物流の交叉するハブ駅でもあったのです。旅人のお休み処としての機能のほかに宿場は各地の物資の中継をする問屋の集合地でした。
いまは面影を残すものはわずかですが、お急ぎでなかったら一度は寄ってみたいところです。
東の端から急傾斜の道を下っていきます。宿場町は東を背にして依田川の谷底に向って西向きの斜面。前は川沿いにあったのですが江戸時代初期の大洪水で街全体を高台に移したようです。
この街並みは縦に進むから竪町といいます。進んでいくとT字路になり横町に。わかりやすいですね。
一福処濱屋・・・明治以降に旅籠として建てられたようですが、街道の時代は終わり開業にいたりませんでした。間口9間、総二階、切妻平入り、出梁造り、総床面積400㎡の重厚な建物です。
今は長久保宿歴史資料館、観光客のお休みどころ、町民の語らいの場として使われています。駐車場があります。
旅籠の中の風景。上がり端、2階に上がる階段があります。
帳場に番頭さんがすわり、桶を持ったお姉さんがいれば時代劇ソノママです。
本陣・・・中山道最古(寛永年間1624年前後)の本陣建築だそうです。左側が高札場あと(お触書などの張り出し場、公式の掲示板ですね)。薬医門の中は覗いていいかどうか。門柱に石合〇〇という表札がありました。
横町に残る唯一の間口11間、総2階、切妻平入り、出梁造りの旅籠、辰野屋竹重家。ウダツが上がっています。
竪町を下りてくるとT字路に。大きな石の道しるべが。長久保宿と書いてありますから明治以後のものでしょうか。窪の字を佳字の久保に変えたいと幕府に申請したが許可されず長久保にしたのは明治以後です。
街道の分岐点です(標高682m)。右はそのまま中山道和田宿方面に。左は北に向かう善光寺道(上田道とも)。
依田川に沿って南に上っていくと大門川との落合(合流点)、大門川に沿っていく道が大門街道。依田川に沿っていけば和田宿(標高800m)は7kmです。
《長久保宿》長野県小県郡長和町長久保・・・小県(チイサガタ)・・・読めません。律令時代の地方組織と思います。依田川に沿った谷間を依田窪郷、明治時代に長窪古町、長久保新町、大門村に。昭和の大合併で長門町に。平成の大合併で和田村と合併して長和町に。いずれも両者の地名を合わせたものでわかりやすい。
「是より長久保宿」
中山道芦田宿(標高720m)から笠取峠(標高850m)を越えて国道を下りていくと国道の右側にこんな標柱が見えます(標高729m)。ここから長久保宿の旧道に入ります。
江戸から数えて27番目の宿場町。名前は知られていませんが、旅籠数は43軒、たいへん栄えたようです。
つまり京・江戸を結ぶ中山道。諏訪と北信濃を結ぶ大門街道(諏訪道)。芦田宿から分れて大内道(現254号線)が長窪古町に。大内道はさらに武石峠から松本に通じていました。長久保宿は物流の交叉するハブ駅でもあったのです。旅人のお休み処としての機能のほかに宿場は各地の物資の中継をする問屋の集合地でした。
いまは面影を残すものはわずかですが、お急ぎでなかったら一度は寄ってみたいところです。
東の端から急傾斜の道を下っていきます。宿場町は東を背にして依田川の谷底に向って西向きの斜面。前は川沿いにあったのですが江戸時代初期の大洪水で街全体を高台に移したようです。
この街並みは縦に進むから竪町といいます。進んでいくとT字路になり横町に。わかりやすいですね。
一福処濱屋・・・明治以降に旅籠として建てられたようですが、街道の時代は終わり開業にいたりませんでした。間口9間、総二階、切妻平入り、出梁造り、総床面積400㎡の重厚な建物です。
今は長久保宿歴史資料館、観光客のお休みどころ、町民の語らいの場として使われています。駐車場があります。
旅籠の中の風景。上がり端、2階に上がる階段があります。
帳場に番頭さんがすわり、桶を持ったお姉さんがいれば時代劇ソノママです。
本陣・・・中山道最古(寛永年間1624年前後)の本陣建築だそうです。左側が高札場あと(お触書などの張り出し場、公式の掲示板ですね)。薬医門の中は覗いていいかどうか。門柱に石合〇〇という表札がありました。
横町に残る唯一の間口11間、総2階、切妻平入り、出梁造りの旅籠、辰野屋竹重家。ウダツが上がっています。
竪町を下りてくるとT字路に。大きな石の道しるべが。長久保宿と書いてありますから明治以後のものでしょうか。窪の字を佳字の久保に変えたいと幕府に申請したが許可されず長久保にしたのは明治以後です。
街道の分岐点です(標高682m)。右はそのまま中山道和田宿方面に。左は北に向かう善光寺道(上田道とも)。
依田川に沿って南に上っていくと大門川との落合(合流点)、大門川に沿っていく道が大門街道。依田川に沿っていけば和田宿(標高800m)は7kmです。
《長久保宿》長野県小県郡長和町長久保・・・小県(チイサガタ)・・・読めません。律令時代の地方組織と思います。依田川に沿った谷間を依田窪郷、明治時代に長窪古町、長久保新町、大門村に。昭和の大合併で長門町に。平成の大合併で和田村と合併して長和町に。いずれも両者の地名を合わせたものでわかりやすい。
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