11時2分。8つ違いの、それこそ母親代わりの姉と一緒に2階にいた。
何をしていたのか知らない。この時起きたことの記憶も半ばおぼろである。
ピカっと光り、ドーンというすさまじい音がして、
家中がガタガタとすごく震えたことはわずかに覚えている。
3歳になったばかりの僕を、姉はひっ掴むようにして抱き、逃げ降りたのだそうだ。
爆心地から3.5㌔、しかも山陰であったことが幸いし、我が家は無事であったが、
「家が吹き飛んでしまうかと思った。本当に恐ろしかった」
後日、姉はその恐怖をそんなふうに語った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/20/c0d52930f1e167ab9a4dd08795bee8db.jpg)
75年前の今日。長崎に原爆が落とされた。
小さい頃、僕らは原爆のことを〝ピカドン〟と言っていたが、
この〝ピカドン〟によって7万4000もの人が亡くなったのである。
爆心地近くに住んでいた母の妹一家も全滅した。
母は、半ば諦めの気持ちで被爆地へ妹を探しに行ったのだが、
結果はやはり虚しかった。
この時、母に同行した長兄。この時16歳であったはずだが、
長ずるにつれ、打ち身によってできたアザでさえ、
「これは放射線のせいではないか」などと
2次被ばくにおののくことがよくあった。
僕自身も「被爆者健康手帳」を所持する身だが、幸いこれまで異常はない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/c4/ca019b421ce0d700437751f4d3491b38.jpg)
「行動の広島、祈りの長崎」──今はもうそんなことはないと思うが、
かつてそんなふうに言われたことがある。
同じ被爆地でありながら、反戦・反核を積極的に行動で示す広島に対し、
長崎はそれを行動に示すことがないことを揶揄したものだった。
実は長崎の爆心地・浦上地区は敬虔なキリスト教徒が多く住んでいた所だ。
そのシンボルとも言えるのが浦上天主堂であるが、この教会も原爆によって壊滅し、
焼けただれたマリア石像はよく知られている。
そうした宗教的な意味合いも込めて「祈りの長崎」だったのである。
ただ、長崎は祈っているだけではない。
すでに息絶えた幼い弟を背負い、唇を噛みしめ真っすぐ前を見る、
あの「焼き場に立つ少年」。米軍の従軍カメラマンが撮影したこの写真は、
ローマ教皇・フランシスコの呼びかけによって
反戦・反核を訴える貴重な写真として世界中に広められた。
少年の噛みしめた唇からにじむ血、これこそ反戦・反核の訴えであろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/f7/b7db99f4f8ae9d2cb88a0e1ecf356120.jpg)
当家の墓もまた、爆心地の近くにあった。
祖母に連れられ、よく墓掃除に行ったものであるが、
コンクリート塀に埋め込まれた鉄柱は、
熱線に焼かれぐにゃりと折れ曲がっていた。
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7月31日以来、夏休みをいただきました。
にもかかわらず、この間多くのリアクションを頂戴し、
本当にありがとうございました。
心からお礼申し上げます。公私にわたり少々多忙な日々でありましたが、
多少軽くなってきましたので、ブログを再開しようと思います。
ただ、以前のように毎日更新というのには、
もうしばらく時間が必要だろうと思います。
ご容赦ください。今後もよろしくお願い致します。