Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

8月9日午前11時2分

2020年08月09日 06時00分00秒 | 思い出の記
11時2分。8つ違いの、それこそ母親代わりの姉と一緒に2階にいた。
何をしていたのか知らない。この時起きたことの記憶も半ばおぼろである。
ピカっと光り、ドーンというすさまじい音がして、
家中がガタガタとすごく震えたことはわずかに覚えている。
3歳になったばかりの僕を、姉はひっ掴むようにして抱き、逃げ降りたのだそうだ。
爆心地から3.5㌔、しかも山陰であったことが幸いし、我が家は無事であったが、
「家が吹き飛んでしまうかと思った。本当に恐ろしかった」
後日、姉はその恐怖をそんなふうに語った。 
                                     
    75年前の今日。長崎に原爆が落とされた。
    小さい頃、僕らは原爆のことを〝ピカドン〟と言っていたが、
    この〝ピカドン〟によって7万4000もの人が亡くなったのである。
    爆心地近くに住んでいた母の妹一家も全滅した。
    母は、半ば諦めの気持ちで被爆地へ妹を探しに行ったのだが、
    結果はやはり虚しかった。
    この時、母に同行した長兄。この時16歳であったはずだが、
    長ずるにつれ、打ち身によってできたアザでさえ、
    「これは放射線のせいではないか」などと
    2次被ばくにおののくことがよくあった。
    僕自身も「被爆者健康手帳」を所持する身だが、幸いこれまで異常はない。
           
「行動の広島、祈りの長崎」──今はもうそんなことはないと思うが、
かつてそんなふうに言われたことがある。
同じ被爆地でありながら、反戦・反核を積極的に行動で示す広島に対し、
長崎はそれを行動に示すことがないことを揶揄したものだった。
実は長崎の爆心地・浦上地区は敬虔なキリスト教徒が多く住んでいた所だ。
そのシンボルとも言えるのが浦上天主堂であるが、この教会も原爆によって壊滅し、
焼けただれたマリア石像はよく知られている。
そうした宗教的な意味合いも込めて「祈りの長崎」だったのである。

    ただ、長崎は祈っているだけではない。
    すでに息絶えた幼い弟を背負い、唇を噛みしめ真っすぐ前を見る、
    あの「焼き場に立つ少年」。米軍の従軍カメラマンが撮影したこの写真は、
    ローマ教皇・フランシスコの呼びかけによって
    反戦・反核を訴える貴重な写真として世界中に広められた。
    少年の噛みしめた唇からにじむ血、これこそ反戦・反核の訴えであろう。
              
当家の墓もまた、爆心地の近くにあった。
祖母に連れられ、よく墓掃除に行ったものであるが、
コンクリート塀に埋め込まれた鉄柱は、
熱線に焼かれぐにゃりと折れ曲がっていた。

     ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂

    7月31日以来、夏休みをいただきました。
    にもかかわらず、この間多くのリアクションを頂戴し、
    本当にありがとうございました。
    心からお礼申し上げます。公私にわたり少々多忙な日々でありましたが、
    多少軽くなってきましたので、ブログを再開しようと思います。
    ただ、以前のように毎日更新というのには、
    もうしばらく時間が必要だろうと思います。
    ご容赦ください。今後もよろしくお願い致します。