生まれ育った長崎から博多に移り住んで40年。
博多暮らしの方が長くなった。
父も母も兄も姉も、皆あの地に眠っている。
その墓は爆心地に近く、浦上天主堂の鐘が聞けるほどの所にある。
だが、随分久しく会いに行っていない。親不孝の限りだ。

唯一人の肉親となった8歳違いの長姉。
その地で長らくの闘病生活を続けているのだが、
このコロナ禍とあっては、こちらも長く見舞っていない。
だんだん長崎が遠くなっていくような……そんな感傷にかられる。

でも、あの地を忘れられるはずもない。
生まれたのは観光スポットともなっている
中華街のある新地だった。
今ほどの賑やかさはなかったが、華僑の人がたくさん住んでおり、
ちゃんぽんや皿うどんの匂いの中を
そこの子たちと遊び回ったものだ。
隣接する湊公園では、10月の長崎くんちが近づくと
当番町・籠町による龍踊りの練習を
毎晩のように見ることが出来た。

小学4年生の時転居した先は、洋風の香りあふれる大浦だった。
家のすぐ近くは雨に濡れるオランダ坂があったし、
遊び場エリアに入るほどの所には大浦天主堂やグラバー園が並び、
中学の同級生にはウォーカー君がいた。


このような異国情緒豊かな長崎は、「和・華・蘭」町と言われる。
中華料理や西洋料理を和風化した
宴会料理である「卓袱(しっぽく)」。
その代表的な老舗料亭で、坂本龍馬や三菱の創業者である
岩崎弥太郎など著名人が訪れたとされる
国の有形文化財・富貴楼は解体され、今はもうない。
そんな「和・華・蘭」町の真っ只中で生まれ育ったのだ。

高校、大学に通うチンチン電車は長崎駅の前を通り過ぎて行った。
今、この駅周辺は大規模な都市開発が進められている。
坂を上った所─その坂を〝県庁坂〟と言ったが─、
そこにあった県庁舎は、開発が進む駅近くに移転している。
県庁があった目の前の交差点は、毎夏精霊船の鉦の音と
爆竹の破裂音が激しく入り乱れたものである。
くんちや精霊流し──この町の一大イベントに
子供たちの心は弾んだ。
40年も離れていても、故郷はやはりふるさと。
父も母も兄も姉も、皆が眠り、そして子供心を弾ませた
あの地を忘れられるはずがない。