Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

長崎慕情

2021年02月07日 15時20分18秒 | 思い出の記
    生まれ育った長崎から博多に移り住んで40年。
    博多暮らしの方が長くなった。
    父も母も兄も姉も、皆あの地に眠っている。
    その墓は爆心地に近く、浦上天主堂の鐘が聞けるほどの所にある。
    だが、随分久しく会いに行っていない。親不孝の限りだ。

            

唯一人の肉親となった8歳違いの長姉。
その地で長らくの闘病生活を続けているのだが、
このコロナ禍とあっては、こちらも長く見舞っていない。
だんだん長崎が遠くなっていくような……そんな感傷にかられる。

         
 
    でも、あの地を忘れられるはずもない。
    生まれたのは観光スポットともなっている
    中華街のある新地だった。
    今ほどの賑やかさはなかったが、華僑の人がたくさん住んでおり、
    ちゃんぽんや皿うどんの匂いの中を
    そこの子たちと遊び回ったものだ。
    隣接する湊公園では、10月の長崎くんちが近づくと
    当番町・籠町による龍踊りの練習を
    毎晩のように見ることが出来た。

          

小学4年生の時転居した先は、洋風の香りあふれる大浦だった。
家のすぐ近くは雨に濡れるオランダ坂があったし、
遊び場エリアに入るほどの所には大浦天主堂やグラバー園が並び、
中学の同級生にはウォーカー君がいた。

                
   
    
    このような異国情緒豊かな長崎は、「和・華・蘭」町と言われる。
    中華料理や西洋料理を和風化した
    宴会料理である「卓袱(しっぽく)」。
    その代表的な老舗料亭で、坂本龍馬や三菱の創業者である
    岩崎弥太郎など著名人が訪れたとされる
    国の有形文化財・富貴楼は解体され、今はもうない。
    そんな「和・華・蘭」町の真っ只中で生まれ育ったのだ。

         

高校、大学に通うチンチン電車は長崎駅の前を通り過ぎて行った。
今、この駅周辺は大規模な都市開発が進められている。
坂を上った所─その坂を〝県庁坂〟と言ったが─、
そこにあった県庁舎は、開発が進む駅近くに移転している。
県庁があった目の前の交差点は、毎夏精霊船の鉦の音と
爆竹の破裂音が激しく入り乱れたものである。

    くんちや精霊流し──この町の一大イベントに
    子供たちの心は弾んだ。
    40年も離れていても、故郷はやはりふるさと。
    父も母も兄も姉も、皆が眠り、そして子供心を弾ませた
    あの地を忘れられるはずがない。