
火鉢にたばこの吸いさしが突っ立っていた。
父の、両切りの「光」だった。
小遣い銭ほしさにタバコ屋に走っていたから、よく覚えている。
朝日のデザインが鮮やかだった。
父は、半分ほど吸うと火鉢に差した。そして、後でそれを吸った。
一本を2度に分けて吸っていたのだ。

それが目の前に突っ立っている。
ふいに誘惑にかられた。
家には誰もいない。どんな用事があったのか覚えていないが、
1人留守番をさせられていた。台所からマッチを持ってきた。
もう一度あたりを見回す。吸いさしをそっと引き抜き、くわえた。
初めてのたばこの味が唇から、匂いが鼻から入ってきた。
マッチをする。たばこに火をつける。すーっと吸い込んだ。
途端に、思いっきりむせ返り、けたたましく咳き込んだ。
あわてて火鉢へ突き立て、涙をにじませながら、ふーっと大きく息をした。
わずか一吸いだ。父親にばれることはあるまい。
妙なことにそんなことを思う冷静さはあった。
中学3年生。たばこの吸い始めであった。

かかりつけの女医さんが、こう警告した。
「心筋肥大による不整脈が出ているし、血圧は高い、
コレステロール値も基準値をオーバーしている。
それなのに、たばこですか……」
母親のごとく、それでいてきっぱりと、
「たばこは、おやめなさい」とのたまわった。
たばこを本格的に喫い始めたのは社会人になってからだ。
一日に一箱20本、神経がエキサイトした時などはつい二箱となった。
そんなことを50年、いや、あの中学生の時の
いたずら心から数えると60年、続けていたわけだ。
その挙句が女医さんの警告となった。
たばこが、からだに良くないことは感じていたから
自分でも驚くほど、あっさりと警告に従った。
それから、もう13年経つ。
だが、きれいさっぱりだったはずなのに……。
公園を通ると、紫をまとったその香(かぐわ)しさが
ほんわりと近寄ってくる。
片隅に10人ほどの男女がたむろして、唇に、指に、
その香しさをちらつかせる。
未練の火はいまだに悩ましくくすぶり続けているのである。
時に、その誘惑は耐えがたいほどで、その手を懸命に振りほどく。