Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

薄情で現金な奴

2020年08月10日 07時58分21秒 | エッセイ
            
    すまぬ。許してほしい。
    君がコロナに感染したと知った時、見舞いの言葉一つかけなかった。
    たとえ、直接伝えることができなくとも、胸の内ででも
    「大変だろうけど頑張ってくれ。早く良くなることを願っているよ」
    などと見舞うべきだった。
    だが、僕は君の身を案じるより先に
    「よもや自分も」との思いにばかりとらわれてしまったのだ。
    思い至らず……薄情の奴と罵られても仕方ない。

年齢は30以上も違う。それだけ違えば、濃厚接触する機会は少ない。
週に2、3度顔を合わせ、たまに言葉を交わす。その程度の距離感ではある。
それでも君がコロナに感染したと聞けば、やはり心はおののく。 
それは恐怖心と言ってもよく、的確な判断力さえ奪われてしまう。
おろおろするばかりで、「自分はどう対処しなければならないのか」
そんなことさえ容易には出てこないのだ。
            
    深く息を吸い込み、そして吐き出した。
    ようやく、「やはりPCR検査を受けるべきだろう」と思い至った。
    だが、どこに、どう話をすればよいのか分からない。
    思い余って、かかりつけの先生に電話して助けを求めた。
    そして、なんとか別の病院でPCR検査を受けることができたのだった。

だが、結果が出るまで一日半かかった。
その間の苦痛は言いようがない。「仮に陽性だったらどうしよう」
そんな不安にさいなまれ、ひどく疲れてしまう。
もちろん、妻も友人との約束はすべてキャンセルし
再度の外出自粛策をとるなど、緊張感をひどく募らせた。
また同じ市内に住む二人の娘にも連絡、行き来を当分控えることにした。

    「陰性でした」との連絡で何とか緊張感から解き放たれたのだが、
    コロナ感染による恐怖心をたっぷり味合わされた2日間だった。
    「ああ疲れた」とため息をつきながら、自らの身の安全が確認できた途端、
    君のことに思いが至ったのである。

これは僕に限ったことかもしれない。
人は何と薄情で、現金な生き物であることか。
再度、君に許しを請う。
幸い、症状は軽いと聞いた。早期の快癒を心から願う。
            

8月9日午前11時2分

2020年08月09日 06時00分00秒 | 思い出の記
11時2分。8つ違いの、それこそ母親代わりの姉と一緒に2階にいた。
何をしていたのか知らない。この時起きたことの記憶も半ばおぼろである。
ピカっと光り、ドーンというすさまじい音がして、
家中がガタガタとすごく震えたことはわずかに覚えている。
3歳になったばかりの僕を、姉はひっ掴むようにして抱き、逃げ降りたのだそうだ。
爆心地から3.5㌔、しかも山陰であったことが幸いし、我が家は無事であったが、
「家が吹き飛んでしまうかと思った。本当に恐ろしかった」
後日、姉はその恐怖をそんなふうに語った。 
                                     
    75年前の今日。長崎に原爆が落とされた。
    小さい頃、僕らは原爆のことを〝ピカドン〟と言っていたが、
    この〝ピカドン〟によって7万4000もの人が亡くなったのである。
    爆心地近くに住んでいた母の妹一家も全滅した。
    母は、半ば諦めの気持ちで被爆地へ妹を探しに行ったのだが、
    結果はやはり虚しかった。
    この時、母に同行した長兄。この時16歳であったはずだが、
    長ずるにつれ、打ち身によってできたアザでさえ、
    「これは放射線のせいではないか」などと
    2次被ばくにおののくことがよくあった。
    僕自身も「被爆者健康手帳」を所持する身だが、幸いこれまで異常はない。
           
「行動の広島、祈りの長崎」──今はもうそんなことはないと思うが、
かつてそんなふうに言われたことがある。
同じ被爆地でありながら、反戦・反核を積極的に行動で示す広島に対し、
長崎はそれを行動に示すことがないことを揶揄したものだった。
実は長崎の爆心地・浦上地区は敬虔なキリスト教徒が多く住んでいた所だ。
そのシンボルとも言えるのが浦上天主堂であるが、この教会も原爆によって壊滅し、
焼けただれたマリア石像はよく知られている。
そうした宗教的な意味合いも込めて「祈りの長崎」だったのである。

    ただ、長崎は祈っているだけではない。
    すでに息絶えた幼い弟を背負い、唇を噛みしめ真っすぐ前を見る、
    あの「焼き場に立つ少年」。米軍の従軍カメラマンが撮影したこの写真は、
    ローマ教皇・フランシスコの呼びかけによって
    反戦・反核を訴える貴重な写真として世界中に広められた。
    少年の噛みしめた唇からにじむ血、これこそ反戦・反核の訴えであろう。
              
当家の墓もまた、爆心地の近くにあった。
祖母に連れられ、よく墓掃除に行ったものであるが、
コンクリート塀に埋め込まれた鉄柱は、
熱線に焼かれぐにゃりと折れ曲がっていた。

     ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂

    7月31日以来、夏休みをいただきました。
    にもかかわらず、この間多くのリアクションを頂戴し、
    本当にありがとうございました。
    心からお礼申し上げます。公私にわたり少々多忙な日々でありましたが、
    多少軽くなってきましたので、ブログを再開しようと思います。
    ただ、以前のように毎日更新というのには、
    もうしばらく時間が必要だろうと思います。
    ご容赦ください。今後もよろしくお願い致します。