小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

経済評論家と学者とは、両立するのか?:

2016年03月02日 | 書評・絵本

経済評論家と学者とは、両立するのか?:

60年代の後半に、学者の虚妄が、これでもかと、暴かれ、ガッカリさせられたことを想い起こすが、経済理論を、大学で、講義している学者の中には、世間的に、その著作の中でも、その主張が、正論で、的を射ていれば、それなりに、評価はできようが、概して、これまでの経験から言わせて貰えれば、だいたいが、評論は出来ても、せいぜいが、過去の現状分析にとどまり、その範囲から、ある種の将来への経済理論学的な見通しと展望、更には、政策の提言などに到るものは、ほぼ、皆無であると謂っても良さそうである。何気なく、新聞の下半分の本の宣伝広告をみていると、嘗て、何冊か、その著作を読んだことのある女性経済学者、或いは、経済評論家と称される人物の著作が、眼にとまったが、間違いなく、そのタイトルは、時流に乗った今風のタイトルで有り、だいたい、何が、論じられているかが容易に、想像出来うるようなものである。要するに、この種の著作は、単に、時流の成り行きで、どうとでも、面白、可笑しく、評論し、或いは、時に、絶望的な悲観論を述べておくことで、真っ先に、そういう事態に陥らなければ、オッケーと言う具合に、安全パイの範囲以外の何ものでもない。まるで、株価や為替相場が、全く、予測不可能で、当たらないのと同じように、常に、若干、一呼吸遅れた頃になって、実は、こうこうだったのであると、まるで、みてきたことのように、評論するのであって、そこから、決して、何かの画期的な新たな経済理論を、抽出できうるような代物でもない。しかしながら、考えてみれば、この種の著作は、ハウ・ツーもの同様に、一定の読者には、現状の追認と現状分析とある種の心の安らぎを与えるものであって、決して、将来への示唆を含むモノでは決してないものである。確かに、それ以上でも、それ以下でもないのかも知れない。何とも、不可思議な著作である。誰か、牙を剥いて、かみつく勇気のある評論家は、いないのであろうか?それとも、この出版業界という世界自体が、そもそも、出版不況の中で、この種の争いをすることで、一斉に、お互いに、地盤沈下しないための『大人の対応』と、生き残りのための最善の策と決めつけているのであろうか?なかなか、興味深い世界でもある。