日本の雑巾に思う:
何でも、『雑巾を縫いませんか!』というお誘いのメールを戴いた。実に、雑巾を縫うなどと云うことは、子供の頃、小学校の家庭科の授業以外には、とんと、雑巾などは、縫った試しは記憶にない。一体全体、日本の雑巾には、どんな意味があるのであろうか?そもそも、人生は、或いは、年寄りの生き方なるものは、雑巾に喩えられるように、ボロボロの人生とか、ボロ雑巾の様に、使い捨てられるというサラリーマンの悲哀のようなものを、そこには、感じざるをえないのは、実に、悲しいことである。もっとも、真新しい白いタオルも、何度も、何年も、使用されていく間に、変色もし、肌触りも、ざらざらになってしまい、或日、突然、ポイとゴミ箱に捨てられる運命にあるのであろうか?それを考えると、雑巾を縫うと云う事は、ある種のリボーン、再生なのかも知れない。そのように考えると、何とはなしに、気が軽くなるようにも思えてならない。日本人の有する雑巾に対する思いやりとは、そんな何ものなのかも知れない、ゴルフ場でのマナーのひとつに、洗面所に、何気なしに、おかれている雑巾は、次の人が、気持ちよく、使用できるように、自分が使用した後には、必ず、したたり落ちた水をそれでえ、ぬぐい取り、綺麗にしておくために、使用されるのが、ゴルファーのマナーであると云われているが、そうした、何気ない気配りや思いやりというモノが、実は、単なるすり切れたボロボロのタオルも、リボーンに結びつくことになるのかも知れない。そう考えると、日本の雑巾を縫うという行為も、何か、深い意味がそこには、有るのかもしれないと、考えると、面白いかも知れない。今回は、残念乍ら、参加できなかったが、日向ぼっこでもしながら、雑巾縫いという裁縫をするのも、面白いことかも知れない。そんな経験も、海外の旅行者には、パッチワークとは違った楽しみかも知れない。