『指導死』という言葉:
随分と、今の世の中、次々と、聞き慣れない新しい言葉が、生まれてくるものである。既に、一つの言葉が、世の中で、ある種の共通認識の中で、既に、流通して始めていると謂うことは、そのこと自体が、ある種の意味合いからすれば、現状、既成事実化しつつあると云うことにもなるのであろう。こんな言葉が、存在するとは、全く、驚きである。進学をする上での教師と生徒間での指導で、所謂、冤罪的な誤った指導のために、中学生が自らの命を絶ってしまったという。一体、15歳の中学生の心の中に、どんな不安や、人家ウヲも否定されるようなことが、更に云えば、自ら、命を絶つような何かが、何故、生じて、何故、両親も、教師も含めて、防ぎきれなかったかと思いを巡らせると、本当に、胸が痛くなってしまう。少子化も糞も、ないではないか?単なるコンピューター上でのインプットミスとか、ダブルチェック・システムという制度上の問題ではなく、そもそも、教師の側にも、或いは、その生徒の側にも、一体、『命の教育』など、どれ程の効果があったのであろうか?それにしても、こんな『指導死』などという言葉が、当たり前に、語られることや、報道されることに、空恐ろしさを禁じ得ない。入学試験や、就職試験とか、いずれにせよ、3月から4-5月にかけては、新しい環境や人生の選択に直面して、誰しもが、精神的に、慣れない環境へと、否応なく、無理強いされてしまいがちである。それでも、『人生、そんなに、死を選ぶほどのことでも無い、断固、一緒に、冤罪を晴らすために、君の名誉のために、戦おうではないか!』と、エールを送る大人が、本当に、この少年の周囲には、誰一人として、いなかったのであろうか?フーテンの寅さんみたいな人が、いなかったのであろうか?何か、『生き抜く逞しい力』というようなモノの欠如を感じざるをえないのは、おおいに、残念なことである。或いは、そうしたものを、育て上げることを助けるような力が、不足しているのかも知れません。何か、システムの根幹に宿るべきある種の『根源的な精神』のようなものが、既に、融解しているように感じられてなりませんネ。『指導』と言う言葉には、柔道の審判ではないが、如何にも、第三者然といていて、主体と客体が、全く、まるで、上下関係のように、或いは、指導・被指導の関係のように、もっといえば、師弟関係の様な様相を呈し始めていているように、感じられてならないが、、、、、、、如何なものであろうか?そんなもので、テメェの人生を決定されてしまってはたまったものではないし、自死を選ぶことで、諫死には、全くならないこと、名誉が保たれることがないことを、何故、考え及ばなかったのであろうか?