小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

偽名と芸名と源氏名とビジネス・ネームとゴースト・ライター:

2016年03月20日 | 社会戯評

偽名と芸名と源氏名とビジネス・ネームとゴースト・ライター:

こうなってくると、今や、何が何やら、さっぱり分からなくなってしまう。相手の名前を聞いたときに、本当に、その名前は、体を表しているのでしょうかと、思わず、聞きたくなってしまう。ショーン・マクアード・川上なる人物が、何でも、経歴詐称とかで、問題になっている。『詐称』自体が、問題であることは、誰しもが、認めることにしたら、それ以外には、一体、何が、本質的なところで、問題なのであろうか?考えてみれば、ペン・ネームというものも、決して、詐称ではなかろう、そのように考えてみれば、日本社会というものは、名前に関しては、なかなか、肝要であるとも云えなくはないだろうか?源氏名などというものは、その最たるものなのかもしれない。問題は、それを語るところの、詐称とは云わないまでも、語る主体の内容であろう。ショーン・Kたる人物が、そのものいいで、或いは、その著作で、講演などで、コメントする内容が、刮目すべきものであれば、決して、これ程までに、バッシングは、受けなかったのかも知れない。逆説的に謂えば、日本という社会は、ある種の権威主義とか、肩書きとかを、源氏名とは別に、重んじる社会なのかも知れない。その意味で、こうした、ある種の許容範囲での『二重性』が、様々な分野で、垣間見れて、実に、面白い。例の難聴の作曲家騒動も、既に、忘れがちであるものの、ペン・ネームも、海外逆輸入の俳優の名前も、ゴースト・作曲家も、今回のビジネス・ネームも、みんな、そんな『仮面の二重性』を、有している社会構造なのかも知れない。今や、サラリーマンも、大きな組織に属していながら、別の肩書きや、別名で、活躍出来る社会であっても、宜しいのではないだろうか?問題は、それを使用するところの主体の意図的な詐称かどうか、ではあろうが、、、、、、。仮に、凄い結果を残していたら、一体、世間は、許したのであろうか?もう一度、自分の名前を考え直すよい機会かも知れない、そして、自分とは、一体、何ものなのかとをも、、、、、、、。