小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

『指導死』という言葉:

2016年03月10日 | 社会戯評

『指導死』という言葉:

随分と、今の世の中、次々と、聞き慣れない新しい言葉が、生まれてくるものである。既に、一つの言葉が、世の中で、ある種の共通認識の中で、既に、流通して始めていると謂うことは、そのこと自体が、ある種の意味合いからすれば、現状、既成事実化しつつあると云うことにもなるのであろう。こんな言葉が、存在するとは、全く、驚きである。進学をする上での教師と生徒間での指導で、所謂、冤罪的な誤った指導のために、中学生が自らの命を絶ってしまったという。一体、15歳の中学生の心の中に、どんな不安や、人家ウヲも否定されるようなことが、更に云えば、自ら、命を絶つような何かが、何故、生じて、何故、両親も、教師も含めて、防ぎきれなかったかと思いを巡らせると、本当に、胸が痛くなってしまう。少子化も糞も、ないではないか?単なるコンピューター上でのインプットミスとか、ダブルチェック・システムという制度上の問題ではなく、そもそも、教師の側にも、或いは、その生徒の側にも、一体、『命の教育』など、どれ程の効果があったのであろうか?それにしても、こんな『指導死』などという言葉が、当たり前に、語られることや、報道されることに、空恐ろしさを禁じ得ない。入学試験や、就職試験とか、いずれにせよ、3月から4-5月にかけては、新しい環境や人生の選択に直面して、誰しもが、精神的に、慣れない環境へと、否応なく、無理強いされてしまいがちである。それでも、『人生、そんなに、死を選ぶほどのことでも無い、断固、一緒に、冤罪を晴らすために、君の名誉のために、戦おうではないか!』と、エールを送る大人が、本当に、この少年の周囲には、誰一人として、いなかったのであろうか?フーテンの寅さんみたいな人が、いなかったのであろうか?何か、『生き抜く逞しい力』というようなモノの欠如を感じざるをえないのは、おおいに、残念なことである。或いは、そうしたものを、育て上げることを助けるような力が、不足しているのかも知れません。何か、システムの根幹に宿るべきある種の『根源的な精神』のようなものが、既に、融解しているように感じられてなりませんネ。『指導』と言う言葉には、柔道の審判ではないが、如何にも、第三者然といていて、主体と客体が、全く、まるで、上下関係のように、或いは、指導・被指導の関係のように、もっといえば、師弟関係の様な様相を呈し始めていているように、感じられてならないが、、、、、、、如何なものであろうか?そんなもので、テメェの人生を決定されてしまってはたまったものではないし、自死を選ぶことで、諫死には、全くならないこと、名誉が保たれることがないことを、何故、考え及ばなかったのであろうか?

 


新手の詐欺メールが来ておもう!:

2016年03月09日 | 社会戯評

新手の詐欺メールが来ておもう!:

どんなに、コンピューター・ウィルス・スキャン・ソフトや、プロバイダーによる二重・三重による防御をしていても、敵も然る者で、これらをかいくぐって、久しぶりに、ZIP解凍ファイル形式で、送金確認の旨の内容で、見知らぬ送信者の名前で、しかも、電子署名付きで、なかなか、手の込んだ方法で、新手の詐欺メールが、送られてきた。無論、送金履歴などは、ないので、即座に、削除したが、スマホと同期していると、うっかり、クリックしてしまいかねない。全く、油断も隙もあったモノではない。一般的なウェッブ上での商取引でもしていたら、緊急・重要など、クレームとか、支払い実行しました式の添付ファイルにでも、ウィルスを忍ばされていたら、ひとたまりもなかろうか?最近では、ネット広告を、みただけでも、或いは、ダブルクリックしただけでも、ウィルス感染してしまうなどと言う物騒な警告が、セキューリティー・ニュースで、案内されてきた。もはや、こうなると、モグラ叩きに等しい状況で、こちら側も、敵の動きを少しでも、その行動パターンを知っておく必要に迫られる。拡張子や、発信プロバイダーや、国名なども、きちんと、チェックしておかなければ、迂闊には、添付ファイルも開けないものである。最近では、.club とか、.org とか、どんどん、新しいドメインが出てきて、気が抜けない。子供達などへのネット教育現場なども、どうしているのであろうか?もっとも、私のような実務の中でしか、自己流で、学んできた老人達のネット・セキューリティー防衛は、まるで、オレオレ詐欺ではないが、誰が、一体、再教育も含めて、守ってくれるのであろうか?こんなニッチのマーケットに、誰も、目を向けてくれないのか?私が、詐欺師ならば、間違いなく、この市場は、有望な市場であると思うが、、、、、、、、。自動送信装置の発展のためか、深夜、00:29になると、迷惑メールが、そう言えば、毎日、来ていたが、セキューリティーを強化したら、来なくなったが、来なければ、来ないで、何か、こちらの危機意識も、弛緩してしまいそうで、逆に、セキューリティー強化のための教育サービスをネット上で、行うことも、結構、大きなビジネス・チャンスではないだろうかとも、素人には、思えるが、要するに、セキューリティー・チェック・サービスとか、再教育システムの提供である。誰か、考えては貰えないだろうか?官公庁や企業だけで、手一杯なのであろうか?

 

 


なでしこにみる成果主義のツケ:

2016年03月08日 | スポーツ

なでしこにみる成果主義のツケ:

レジェンドも、結構なことであるが、個人競技とはことなり、団体競技の場合には、後進にそのポジションを与えてあげて、自分は、その経験とノウハウを生かして、指導者への途を歩んでもらいたいモノであると、勝手に、素人は考えがちであるが、自分の力で、下克上さながら、奪いとるのが、この世界の掟であると云えば、そうであるとも、思えないこともないが、、、、、、、。それにしても、なでしこのサッカーというのは、これまでは、男子のサッカーに較べて、安心して、みられたものであるが、ここのところ、少し、陰りが出てきたかなとも思いがちであったが、案の定、余りの急ぎすぎた成果主義と経験重視、安全パイでのベテラン重視で、結局、世代交代が、うまく、ゆかずに、リオ五輪への出場権を逃す結果になってしまったのは、残念なことである。期待していなかった男子の方が、逆に、出場するとは、、、、、、、何とも、皮肉なことである。勝てば、官軍で、佐々木監督も、ぼろくそに言われて、手倉森監督の評価が、圧倒的に、上がってしまったことは、結果の世界だから、仕方の無いことなのかも知れない。それにしても、性急な期待その成功体験の維持の為に、成果主義を徹底的に、突き詰めてくると、結局、どこかで、こういう結果を招きかねないことは、監督のみならず、誰しもが、うすうす、感じていたことであろうことは間違いないであろう。それならば、もっと、プロの解説者は、嫌われても、リオ五輪のためには、澤が出場しなければ、勝てないと、断言すべきであったのかも知れない。又、逆に、自身の引退の花道を、後進の若手に、チャンスをわざわざ、与えた澤の温情は、誠に、美談にはなっても、もっと、レジェンド足る所以のエゴを出させても良かったのかも知れない。四半期毎の成果主義は、結局、行き着くところ、フランスのワールドカップ優勝後での凋落同様、どこかで、常に、常勝巨人軍なるものが、難しいのと同様、その時、ババを掴まされた監督こそ、或いは、選手こそ、お気の毒と云うほかないのかも知れない。女子サッカー界のためには、今後、ベテランや海外経験を積んだ選手達が、草の根から、底上げのために、今後、どんな受け皿で、どのような指導者になり、若い選手を一流選手に育ててゆけるかに関わってくるのかも知れないが、今後が、たのしみである。それにしても、基本的なパス回しとか、意思の疎通とか、一寸したことのミスから、勝てなくなるものであることは、まるで、経済や、人生の一端を垣間見るようである。もはや、スポーツ観戦とは、別の次元で、90分を視てしまうのは、どうしたものであろうか?観る側でよかった。やっている選手達も、監督・スタッフ達は、大変なことであろう。


夫婦共稼ぎが、半分なのか!:

2016年03月07日 | 社会戯評

夫婦共稼ぎが、半分なのか!:

自分も、結婚した頃は、奥さんの資格を生かして、継続して、子供達が、5歳ころになるまで、共稼ぎで、働いたものである。もっとも、その頃は、まだ、待機児童の問題が、それ程、深刻ではなかったものの、それでも、第二子を出産して、職場に復帰するときには、無認可の保育所に一時的に、預けたことを想い起こす。別に、生活が苦しくて、働いた訳でもなく、考えてみれば、随分と、今の時代に比べて、恵まれていたのかもし得ない。しかも、急病などで、預けられない時には、母が、面倒をみてくれていたりと、バックアップ体制も問題なかったことを考えると、今日の保育や育児の夫婦協働は、随分と、大変なことが窺える。時代の要請も、或いは、女性の社会進出も、それぞれの制度の拡充が、伴わないと、大変なことであろう。更には、生活資金の捻出のために、どうしても、夫婦で、共稼ぎをしないと、家賃も支払えないとなると、別の問題でもあろうか、昔は、アメリカから、DINKSなどという結構なコンセプトが紹介されて、子供がいなくて、夫婦二人で、ダブル・インカムで、自由気儘に、暮らせることが、あたかも、夫婦の理想のような言い方がされた時代もあったが、一体、あの頃のDINKS達は、今、どうしているのであろうか?依然として、バリバリで、社会の第一線で、稼ぎまくっているのであろうか?それとも、リーマン・ショックで、没落でもしてしまったのであろうか?女性が社会進出して、その能力を発揮できる場所と機会が、与えられることは、決して、悪いことではなく、むしろ、これからの少子化の中で、必要であろうことは、間違いことであろうが、男性の方の給料や実質賃金が上がることなく、むしろ、低下して、この家計を補うために、共働きということになると、一寸、本筋とは違うかなと、首を捻りたくなる。DINKSだけでなくて、同じく、昔のMISSYなる存在も、今や、どうなっているのであろうか?こちらは、『お一人様』などと、おだてられて、快適な一人暮らしを、続けているのであろうか?もうこれらの人々も、既に、いい歳なっているはずである。まさか、下流老人予備軍にでも、属しているのではなかろうか?共働きが、半分以上になる社会とは、どんな社会なのであろうか?考えてみれば、『共稼ぎ』と言う表現も、いかにも、古くさい、カネに固執したような感じがしなくもなく、『共働き』という方が、時代に適合したコンセプトを理解した、如何にも、垢抜けした表現なのかもしないと思わざることも無い。そうおもうと、時代時代の英語での表現も、今にして思うと、なかなか、興味深いものがある。一寸、そんなことを思いだした。

 

 


おからポテトサラダを作る:

2016年03月06日 | 男の手料理・食

おからポテトサラダを作る:

男の料理も、随分と、間が空いてしまった。実に、久しぶりである。何でも、ロー・ファットで、低カロリーで、しかも、手頃な値段で、食物繊維が豊富で、確かに、大豆の絞りかすだから、そうなのかも知れないが、おまけに、食材の増量にもなると謂うことで、取りあえず、間違いなく、確実に、簡単なレシピーで、まずは、ポテト・サラダを作ってみることにした。ツナ缶を使用すれば、間違いなく、普段食べている普通のポテト・サラダと変わらない出来映えである。これならば、この応用問題として、延長線上に、コロッケも、簡単に作れそうである。おからを使って、次は、おからハンバーグでも作ることにしてみよう。こちらは、洋風でも、和風でも、どちらにでも、レシピーを若干変更してゆけば、それなりに、保存食にもなるし、なかなか、面白い食材であろう。一挙に、おからを使用した料理のレパートリーが、充実しそうである。想像していた以上に、簡便で、しかも、味も、失敗はなさそうである。便秘にも、効くこと間違いなしとなれば、更に尚、良しであろうか?

 


トランプ外しの矛盾:

2016年03月05日 | 社会戯評

トランプ外しの矛盾:

米国大統領予備選挙の様相も、なかなか、興味深いものになってきた。スーパーチューズデイ以降、民主党では、本命と称されるヒラリー・クリントンが、どうやら、若者や学生層の支援に支えられたサンダースの主張を、徐々に、取り入れることによって、少しずつ、じわじわとその差を広げ始めてきた。それにしても、共和党の方は、既存の所謂政治経験のある共和党の政治家に対して、とりわけ、ブッシュに対する、その既存のプロ政治家故への反抗的な理由と絶望から、全く、その枠外である素人に等しい候補の最たるものとしてのトランプへの期待が、実際、勢いづいて来てしまった。ここへ来て、流石の共和党の重鎮達も焦りを隠せずに、とうとう、反トランプの陣営構築に動き出してきたものの、そもそも、基盤が全く、異なるところから、でてきている以上、謂わば、タコが自らの脚を食べてしまうような結果に、ならないとは、保証の限りではない。むしろ、自分たちの、声なき声を吸い取れなかった、或いは、吸い上げる仕組みを構築できなった、更には、それらの包括的な理由を、蔑ろにして、只単に、トランプ憎しでは、本当に、大丈夫なのであろうか?これは、まるで、一興多弱の何処かの国の雇うが、安倍憎しとばかりに、出戻り同士の新党結成に伴う党名を公募する構図と、何処なしら、似ていなくもないようで有る。考えてみれば、政治が、変革されるときには、何らかの形で、素人が、或いは、場違いの異分野から、出てくることも、まんざら、歴史の中では、珍しいことではない。その意味からすると、こうした背景の声が、果たして、ホンネに近い形の声を、どのように、政策に、生かされて行くのであろうか?

 


経営のスピード感というもの?:

2016年03月04日 | 社会戯評

経営のスピード感というもの?:

ハイアールも、鴻海も、考えてみれば、前者が、サンヨー、後者が、シャープという日本人技術者が、大量に、週休移転されて、働いていることになるのであろうが、何でも、決定的な日本的な経営との差は、そのスピード感のある決定力だそうである。しかしながら、考えてみれば、そんなことは、別に今に始まったことではないであろうが、今更ながら、そんなことを論じられるとは、全く情けないことである。松下幸之助も、再三に渡る人生での逆境の時にも、大胆な決断と決定を、独自に、スピード感を以て、実行したものであることを想い起こされる。昔、日本の家電が競って、ヨーロッパやアメリカから、技術ライセンスを導入したときには、当時の技術者は、一体、どんな思いで、今、何をしているのであろうか?とうの昔に、別の業界へでも転職してしまっているのであろうか?それとも、もう、定年で、リアイヤーしてしまっているのであろうか?何とも、情けない状況である。何でも、一説によれば、家電業界では、日本の家電という現在の立ちどころは、既に、局地戦ですら、まともに、戦えないのが、現状であるそうで、日の丸〇〇などという言葉すら、今や、空虚なものになりつつある。PCも、ディスプレイも、家電も、半導体ですら、今や、V字回復の可能性は、ほとんどないのであろうことは、誠に、残念なおもいがしてならない。


自動運転の必要性を改めて感じる:記事のタイトルを入力してください(必須)

2016年03月03日 | 社会戯評

自動運転の必要性を改めて感じる:

歳をとってから、運転免許の返納が問題になっているが、何でも、運転に自信のある人ほどが、そういう傾向が強いらしい。もっとも、一頃の危険ドラッグによる事件は、減少傾向があるものの、長距離バスの事故や、突然の予期せぬ病気の発症によって、突発的に生じる死亡事故などを考えると、まんざら、自動停止装置とか、その延長線上での自動運転とか、居眠り防止装置とか、様々な安全運転補助の装置が、開発されることも、決して、悪いことではないのかも知れない。公道でのロボ自動運転のタクシー実証実験とか、それなりに、価値のある第一歩になるのかも知れない。そう考えてくると、自動運転という技術も、決して、夢の技術とは、言い切れない様な現実が、いよいよ、近づきつつあるのかもしれない。とりわけ、高齢者や認知症による高速道路上での逆走の事前防止とか、危険運転の可能性の予防装置の導入・提供なども、近い将来には、必ず、実現可能になってくるであろう。一挙にとは行かないまでも、すこしづつ、一歩一歩、装置の改善と、進化が、みられればそれに超したことはないであろう。自動運転は、危ないなどとタカをくくっていると、いつの間にか、技術の進化により、立場が、逆転してしまうかも知れない。その意味では、改めて、自動運転・安全運転補助システムの一層の発展と導入が、産業の総合的な成長・発展も含めて、やはり、必要なのかも知れない。そう考えると、車離れというものも、必ずしも、考えようによっては、まだまだ、成長する分野が残っているように思えるが、、、、、、、。そんな風に、自分自身の考え方が、すこしづつ、変わってきたようである。


経済評論家と学者とは、両立するのか?:

2016年03月02日 | 書評・絵本

経済評論家と学者とは、両立するのか?:

60年代の後半に、学者の虚妄が、これでもかと、暴かれ、ガッカリさせられたことを想い起こすが、経済理論を、大学で、講義している学者の中には、世間的に、その著作の中でも、その主張が、正論で、的を射ていれば、それなりに、評価はできようが、概して、これまでの経験から言わせて貰えれば、だいたいが、評論は出来ても、せいぜいが、過去の現状分析にとどまり、その範囲から、ある種の将来への経済理論学的な見通しと展望、更には、政策の提言などに到るものは、ほぼ、皆無であると謂っても良さそうである。何気なく、新聞の下半分の本の宣伝広告をみていると、嘗て、何冊か、その著作を読んだことのある女性経済学者、或いは、経済評論家と称される人物の著作が、眼にとまったが、間違いなく、そのタイトルは、時流に乗った今風のタイトルで有り、だいたい、何が、論じられているかが容易に、想像出来うるようなものである。要するに、この種の著作は、単に、時流の成り行きで、どうとでも、面白、可笑しく、評論し、或いは、時に、絶望的な悲観論を述べておくことで、真っ先に、そういう事態に陥らなければ、オッケーと言う具合に、安全パイの範囲以外の何ものでもない。まるで、株価や為替相場が、全く、予測不可能で、当たらないのと同じように、常に、若干、一呼吸遅れた頃になって、実は、こうこうだったのであると、まるで、みてきたことのように、評論するのであって、そこから、決して、何かの画期的な新たな経済理論を、抽出できうるような代物でもない。しかしながら、考えてみれば、この種の著作は、ハウ・ツーもの同様に、一定の読者には、現状の追認と現状分析とある種の心の安らぎを与えるものであって、決して、将来への示唆を含むモノでは決してないものである。確かに、それ以上でも、それ以下でもないのかも知れない。何とも、不可思議な著作である。誰か、牙を剥いて、かみつく勇気のある評論家は、いないのであろうか?それとも、この出版業界という世界自体が、そもそも、出版不況の中で、この種の争いをすることで、一斉に、お互いに、地盤沈下しないための『大人の対応』と、生き残りのための最善の策と決めつけているのであろうか?なかなか、興味深い世界でもある。

 


アラブの春とは何だったのか?:

2016年03月01日 | 社会戯評

アラブの春とは何だったのか?:

5年前のこの一連の運動というものは、一体、何だったのであろうか?チュニジアに始まった一連のアラブ諸国での民主化運動とは、どういう意味合いで、どういう運動の展開が、予期されていたのであろうか? 5年後の今日、リビアでの出来事、エジプトでの出来事、更には、シリアにおけるISを含めた様々な複雑な抗争と、代理戦争の様相は、単なる大国の一種の民主化という理想への奢りと、具体的な石油利権、或いは、イラク戦争の戦後処理の仕方、アラブ諸国に於けるモスリム同士のシーア派・スンニ派との血で血を洗う対立抗争と、イラン・サウジという両国での覇権争い、アラブの大義をかけた争いに、ロシア・米国の大国の思惑も絡み、複雑な様相を呈しているというのが、実態であろうか?60年代の後半の世界的な学生運動の高まりの中で、一部の分析では、CIAによる世界的な陰謀説や政治工作が、公然と論じられたことがあったが、実際、今日、イスラム世界で、現在進行形で進行している出来事の要因は、一体、何処から、派生してきたのであろうか?米国は、戦後処理で、とりわけ、日本に於ける占領政策の成功(?)は、逆に、今日の中東政策のそれと、何処が、大きく、異なっていたのであろうか?冷戦の進行が、逆に、日本の統治を、手助けしたことになるのであろうか?戦後の占領政策は、日本国憲法の制定だけではなくて、もっと、広範に、研究されても良さそうなものである。アラブの春は、受け皿作りに、失敗したのか、それとも、現場の統治機構、現地の文化・歴史を尊重しなかったからなのであろうか?一体、それならば、そんなことは、既に、第二次大戦の戦後の統治の中で、勉強を積んでいた筈ではなかったのか?麻縄の如く、乱れてしまった糸を、今や、どのように、一本一本づつ、どのように、解いてゆけるのであろうか?