【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

クリスマスシーズン/『プルターク英雄伝(九)』

2008-12-13 17:39:47 | Weblog
 20世紀には12月になってからでしたが、最近は12月に入る前からあちこちでクリスマス・ツリーやイルミネーションが飾り付けられ、住宅街でも自宅をイルミネーションで飾る人がリキを入れており、街はクリスマスの雰囲気一色となりました。ところでここは日本ですよねえ。クリスマス・ツリーの方が門松よりも圧倒的に多い国って、やっぱりキリスト教国なのかな?

【ただいま読書中】
プルターク英雄伝(九)』プルタルコス 著、 河野興一 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1956年(62年6刷)、★★★

 アレクサンドロス、カエサル、フォーキオーン、小カトーの編です。『ローマ人の物語』でもアレクサンドロスとカエサルはよく併記されますが、これはもうローマ時代からの“伝統”と言って良いのかもしれません。で、著者は「自分が書くのは、歴史ではなくて伝記(言行録)だ」とさらりと宣言して本書を始めます。「歴史」には書いた人の主観が投影されますが「伝記」だともうちょっと主観(史観)から離れている(客観性を獲得している)と言いたかったのでしょうか。
言行の「行」では
・(若い時に)強制に対しては反抗するが、道理には容易に服して為すべき事に向かう
・物を要求する人々に対してよりも物を取らない人々に対して機嫌が悪い
「言」では
「贅澤がもっとも奴隷的で勞苦が最も王者的だといふことを知らないとは不思議だ」
「征服された人々と同じやうな事をしないのが我々の征服の目的だといふことを諸君は知らないのか」
 などがアレクサンドロスの性格を良く現しているのではないか、と私には感じられます。

 歴史の本を読んでいると、アマゾン族の女王がアレクサンドロスに会いに来た、とよく書かれていますが、プルタルコスはそれを否定します。その根拠は、あれだけ筆まめだったアレクサンドロスの手紙にアマゾン族のことが全然登場しないから。非常にわかりやすい理由です。
 アレクサンドロスは“英雄”として大帝国を打ち立てましたが、それに従って性格(言動)がどんどん変化していく様が本書には描かれています。諫言する友を自ら殺してしまう(そしてその直後深く後悔する)シーンなどあまりにリアルすぎます。

 カエサルのところにも、印象的なことばがあります。たとえば……
「母上、あなたの息子は今日官職に就くか亡命者になるかです」
「この年齢にアレクサンドロスは既にあれほど多くの民族の王となつてゐたのに、自分はまだ何一つ花花しい事をしてゐないのが悲しみの種だと諸君は思はないのか」

 『ローマ人の物語』で著者の塩野さんはまるで惚れ込んだ男について書くようにユリウス・カエサルについて描き出します。しかしプルタルコスは礼賛するわけではなくと言って非難するわけでもなく、冷静にカエサルの言行について書き続けます。ブルータスについても軽々しく批判も擁護もしません。こういった態度は、科学者が実験結果について記述する態度に似ているように私には感じられます。

 そうそう、アレクサンドロスとカエサルは、軍事的に偉業を為した・政治的に多民族を上手く支配した、だけではなくて、金遣いがすごかった(資金源は、アレクサンドロスは征服によって、カエサルは借金によって、と違いますが)、という共通点があります。プルタルコスでなくても、対比して列伝を書きたくなる“対象”ですね。