明快な思想を持つ人のことばは明快になります。ことばは思想から生まれるものですから。しかし、その逆、明快なことばを使う人が明快な思想を持っているかといえば、その保証はありません。もしかしたらその人は、単純な思考や粗雑な思考しか持っていない場合もあります。ですから、「ことばが明快かどうか」は重要なことではありますが、あまり不必要にこだわりすぎない方が吉です。
【ただいま読書中】
『脳と心』ジャン=ピエール・シャンジュー/ポール・リクール 著(対談)、合田正人・ 三浦直希 訳、 みすず書房、2008年、4800円(税別)
脳に関して科学は引き裂かれています。行動学は動物や人間の行動を解析しますが、そこでは脳は一種のブラックボックスとして扱われています。分子生物学は分子レベルで脳を解明していきますが、詳細に分析すればするほど「美の知覚」や「創造性」といった高度な機能は見えなくなっていきます。
そして、哲学は自らの内に閉じ籠ってしまっています。科学と哲学ともまた「引き裂かれた存在」であるかのようです。
本書は、分子生物学者のシャンジューと哲学者のリクールとの対談です。私が劣等感の塊だったら「なんだ、衒学の書か」と言いたくなるであろう、知識と言葉の奔流です。ところが編者は読者に対して「審判ではなくてパートナーとして論争に参入」することを求めます。そこまで読者を信じちゃって良いんですかねえ。私自身は成熟した読者ではないので、ついつい、哲学よりは自分にまだ馴染みのある科学の側からこの本を読もうとしますが、初っぱなから「脳についての言説が共通経験に変化を惹き起こすか」と言われると、なんのこっちゃい、と目をぱちくりです。
スピノザ、カント、ポパー、デカルト、コント、スペンサー、ダーウィン、ジョン・ワトソン、ブローカ、オリヴァー・サックス、パスカル、カンギレム……はじめのあたりのほんの数十ページの間に、最低これだけ(あるいはこれ以上)の人の思想や業績が紹介されたり言及されます。よくもまあこれだけ本を読めて覚えていられるものだと私はまずそこに感心してしまいます。それと「何を読むか」ではなくて「それをどう読むか」がいかに重要であるかもわかります。この二人は同じ本でも全く違った読み方をしているのですから。
リクールは「同一平面への展開」ということばをよく使います。幾つかの言葉が同じ「平面」に展開されたらその言葉には関係が生じます。しかし、別の平面に展開されたらそれらの言葉は交わりません。「脳」と「心」はリクールにおいては「別の平面」に属することば(概念)のようです。それでもリクールは「ニューロン的なもの」と「心的なもの」の交差は認めます。
しかし、シャンジューにとっては(物としての)「脳」と(その機能としての)「心」は“地続き”です。ニューロンの機能として心が活動する、それ以外に考えられるか?なのですが、リクールはそこに異議を申し立てます。
本書は、単に科学と哲学の“対決”ではありません。シャンジューは諸科学の隔壁を取り払って統一科学を打ち立てたいという“野望”がある様子ですし、リクールは「現象学」(反省的・記述的・解釈学的を合わせたもの)の立場をまもろうとしているようです。両者ともそれぞれ「各分野の代表選手」と名乗ったら異論続出になりそうな人選だったでしょう(彼ら自身がそのことについて言及しています)。ただ(プラトンを持ち出すまでもなく)「対話」によって生じるダイナミズムは人の心を動かします。少なくとも私の心は動きました。しかし「この本を理解するために読まなければならない本」のリストは長大です。死ぬまでにそれらのどのくらいが読めるかしら?
【ただいま読書中】
『脳と心』ジャン=ピエール・シャンジュー/ポール・リクール 著(対談)、合田正人・ 三浦直希 訳、 みすず書房、2008年、4800円(税別)
脳に関して科学は引き裂かれています。行動学は動物や人間の行動を解析しますが、そこでは脳は一種のブラックボックスとして扱われています。分子生物学は分子レベルで脳を解明していきますが、詳細に分析すればするほど「美の知覚」や「創造性」といった高度な機能は見えなくなっていきます。
そして、哲学は自らの内に閉じ籠ってしまっています。科学と哲学ともまた「引き裂かれた存在」であるかのようです。
本書は、分子生物学者のシャンジューと哲学者のリクールとの対談です。私が劣等感の塊だったら「なんだ、衒学の書か」と言いたくなるであろう、知識と言葉の奔流です。ところが編者は読者に対して「審判ではなくてパートナーとして論争に参入」することを求めます。そこまで読者を信じちゃって良いんですかねえ。私自身は成熟した読者ではないので、ついつい、哲学よりは自分にまだ馴染みのある科学の側からこの本を読もうとしますが、初っぱなから「脳についての言説が共通経験に変化を惹き起こすか」と言われると、なんのこっちゃい、と目をぱちくりです。
スピノザ、カント、ポパー、デカルト、コント、スペンサー、ダーウィン、ジョン・ワトソン、ブローカ、オリヴァー・サックス、パスカル、カンギレム……はじめのあたりのほんの数十ページの間に、最低これだけ(あるいはこれ以上)の人の思想や業績が紹介されたり言及されます。よくもまあこれだけ本を読めて覚えていられるものだと私はまずそこに感心してしまいます。それと「何を読むか」ではなくて「それをどう読むか」がいかに重要であるかもわかります。この二人は同じ本でも全く違った読み方をしているのですから。
リクールは「同一平面への展開」ということばをよく使います。幾つかの言葉が同じ「平面」に展開されたらその言葉には関係が生じます。しかし、別の平面に展開されたらそれらの言葉は交わりません。「脳」と「心」はリクールにおいては「別の平面」に属することば(概念)のようです。それでもリクールは「ニューロン的なもの」と「心的なもの」の交差は認めます。
しかし、シャンジューにとっては(物としての)「脳」と(その機能としての)「心」は“地続き”です。ニューロンの機能として心が活動する、それ以外に考えられるか?なのですが、リクールはそこに異議を申し立てます。
本書は、単に科学と哲学の“対決”ではありません。シャンジューは諸科学の隔壁を取り払って統一科学を打ち立てたいという“野望”がある様子ですし、リクールは「現象学」(反省的・記述的・解釈学的を合わせたもの)の立場をまもろうとしているようです。両者ともそれぞれ「各分野の代表選手」と名乗ったら異論続出になりそうな人選だったでしょう(彼ら自身がそのことについて言及しています)。ただ(プラトンを持ち出すまでもなく)「対話」によって生じるダイナミズムは人の心を動かします。少なくとも私の心は動きました。しかし「この本を理解するために読まなければならない本」のリストは長大です。死ぬまでにそれらのどのくらいが読めるかしら?